境のパワースポットです!
境のパワースポットです!御利益がありますよ🙌
読み方が解らなくカ―ナビでなんとかたどり着いたんだけど留守でした。
社務所に留守の時は前の寿司屋に声を掛けて下さいとの貼り紙がありましたので寿司屋も人がいるのかいないのか?人の気配もありません。
参拝するにも賽銭箱なく廃宮のようです。
何て読むのだろう?🤔
瑳珂比神社(さかいじんじゃ)主祭神 倉稲魂命配祀神 火産霊命 健御名方命 泰盞鳴命 大物主命 菅原道真命 鎮西八郎為朝命 誉田別命 大日孁命創建 大永年間(1521~1527)由緒当社の創建は、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521-1527)とされています。
長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀3年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣(いするぎ)権現と称しました。
御陽成天皇の天正8年(1590)小此木氏が当地を退去すると、郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めました。
後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり、後光明天皇の正保4年(1647)に例幣使街道が開設され宿場町となると町並みも形成され、慶安年間(1648~1651)には境町となりました。
桃園天皇の宝暦11年(1761)拝殿が造営され、後桜町天皇の明和3年(1766)には石鳥居が建立されました。
後桃園天皇の安永2年(1773)、社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され、光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建設されています。
その後も神域は整備され明治7年(1874)には村社に列せられました。
明治40年(1908)9月に境内末社の菅原神社(菅原道真命)、八幡宮(応神天皇)、疱瘡神社(鎮西八郎為朝命)、また町中にお祀りされていた諏訪神社(建御名方神)、八幡宮(応神天皇)、八坂神社(泰盞鳴命)、稲荷神社(倉稲魂命)、神明宮(天照大御神)、菅原神社(菅原道真命)、琴平宮(大物主命)、秋葉社(火産霊命)を合祀、社名を瑳珂比神社と改め現在に至ります。
(境内案内板より)
御朱印があるようですが留守でした電話番号が書いて有ったので電話すれば頂けるかも。
名前 |
瑳珂比神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
小学校と高等学校に囲まれたような神社です。
参拝に行くと子供たちの賑やかな声や先生の声が聞こえます。
向拝の前の狐さん小さいですが良いですね。
本殿に良い彫刻があるのですが全体に覆い屋があり、目の細かい金網で囲われているため遠目では彫刻があまり認識できません。
もう少し金網の目が粗ければなどと思ってしまいました。
なんとか撮影できました。
撮り方でこのくらいまでなら撮せそうですよ。