ちょっと立ち寄るのにちょうどいいかな?
確かに戦場になりそうな平地が広がっています。
小手指地区北野の埋蔵文化財調査センターのある一帯は、「小手指ヶ原」と呼ばれ、今から650年以上前、たびたび合戦が繰り広げられました。
中でも新田義貞による鎌倉攻めの戦いは、印象的であったことを地名や伝承地などからうかがうことができます。
上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞は、鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、元弘3年(1333年)5月8日に新田荘を出ます。
初め150騎ほどであった一行は、兵を進めるに連れて沿道の武士が加勢し、数を増やしていきました。
鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は、5月11日に小手指ヶ原で切って落されます。
戦いは一進一退を繰り広げる激戦となりましたが、幕府軍は徐々に新田軍の進軍を許すところとなり5月22日に陥落、鎌倉幕府は滅びました。
【指定年月日】昭和36年9月1日【所在地】所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)
Wikipediaによると、5月8日、新田義貞は生品神社で挙兵したのち、11日朝に入間川を渡って小手指原に達し、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と衝突した。
幕府軍は義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、新田義貞の方が動きが迅速であった。
両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。
戦闘は30回を越える激戦となった。
兵数は鎌倉幕府軍の方が勝っていたが、同様に鎌倉幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。
日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、新田義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は生品神社で挙兵したのち、11日朝に入間川を渡って小手指原に達し、桜田貞国を総大将とする鎌倉幕府軍と衝突。
幕府軍は義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった。
両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく戦闘は30回を越える激戦となった。
兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。
日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退した。
昔、戦があったぽい広い平野です。
今は見事な田園風景。
昔は戦のたびに田畑をあらされ焼かれたりされたのでしょうね。
しかしこの手の場所のマップのコメントはほとんどが案内看板やウィキペディアの完コピですね。
自分の言葉でコメントしてほしいですな。
名前 |
小手指原古戦場碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
閑静な雑木林と畑地の中の碑。
小手指原自体は広大で合戦場が当地かは不明のようですが、20万という大軍が戦うには十分な土地かと思います。