昔は別の場所にあったのだそうです。
大山街道(※1)と八王子街道(町田街道)(※2)との辻(長津田辻※3)に祀られていたお地蔵さまです。
246号線の長津田辻で町田街道を北に見送って東に少し進めば、長津田方面に向かう道が南に分かれます。
この道に入ってすぐ、左側を眺めれば小さな祠が見えます。
祠の中には、長い歳月により摩耗してはいますが、端正なお顔立ちのお地蔵さまがお祀りしてあります。
お地蔵さまは赤い帽子によだれかけを着けており、お供え物が上げられ、周囲は綺麗に清掃され、祠に丁寧な説明書が貼ってある等、地元の方々から篤く信仰されていることが覗われます。
説明書きによると「この地蔵尊は念仏供養や所願成就を願って元文5年11月(1740年)に建てられたもので今から270有余年前です。
その頃から皆さんの願いを何でも聞いて下さると言うので霊験あらたかと崇敬され親しまれてきました。
・・・」と記されています。
元文(げんぶん)年間は江戸中期、8代将軍徳川吉宗の時代。
享保年間に続き、吉宗による改革が行われ、緊縮財政が執られて不景気な現代の日本に似た時代と言われています。
また、享保末期には江戸四大飢饉の一つである享保の大飢饉が起こっています。
長梅雨及び冷夏により、数万人~数十万人の餓死者を出したと言われ、西日本が一番被害が大きかったとは言え、東国でも飢えに苦しんだに違いありません。
飢えと栄養失調による病気により、とりわけ抵抗力の弱い幼児は亡くなることが多かったでしょう。
お地蔵さまは六道で苦しむ衆生を救って下さる菩薩です。
特に子供を守ってくれる仏様との信仰があり、この地域の人々にとってお地蔵さまの建立は大切な願いであったのでしょう。
また、お地蔵さまの赤い帽子やよだれかけは、元来、子供の使っていたものをお地蔵様に着けて頂くことによって、子供の匂いを覚えてもらい守ってもらいたいと言う親の切実な願いが込められているようです。
また、この辻地蔵さまの作られた江戸中期頃までに成立したとされる「賽の河原地蔵和讃」(ご詠歌、一種の歌謡文芸)は聞くたびに胸を締め付けられます。
内容は、親に先立って亡くなった子供たちは親を悲しませた不孝の報いで成仏出来ないので、功徳を積み仏の世界に行こうと考え、親の供養のため供養塔を作ろうとする。
そして賽の河原の石を積み始めるが、何度積んでも完成前に鬼が壊してしまう。
そこにお地蔵さまが現れ子供たちを救って下さる。
と言うものです。
特に「・・・峰の嵐が聞こえれば父かと思うて馳せ上がり辺りを見れども父は来ず、谷の流れの音すれば母が呼ぶかと喜びて、こけつまろびつ馳せ下り、辺りを見れども母は無く、走り回りし甲斐もなく西や東に駆け回り石や木の根につまづきて、手足を血潮に染めながら幼子哀れな声をあげ、もう父上はおわさぬか、のう懐かしや母上と、この世の親を冥土より慕い焦がれる不憫さよ・・・」のくだりを思い出すたびに涙が止まらなくなってしまいます。
これは年をとったせいでしょうか?これまで長い年月人々の祈りを受け止めてきて下さったお地蔵さまに、これからも私たち衆生、殊に小さな子どもたちを守って下さるようお願いして手を合わせました。
なお、お地蔵さまの左隣りに道祖神さまもお祀りしてあります。
こちらは昭和26年11月14日辻講中の刻銘があります。
私と同年代の建立の道祖神さまと言うことで何やら懐かしかったです。
(注)※1古くは矢倉沢往還と呼ばれた古道で、江戸中期以降に大山詣が盛んになるにつれ大山街道の名称が普及、現在の国道246号線はほぼこの道に沿っている。
※2神奈川往還とも、八王子方面の絹糸を横浜港に運ぶ絹の道・現在の町田街道及び国道16号線等がこの街道に沿う。
※3長津田辻は最近、町田辻と改称されたようです。
(バス停の名称の長津田辻が町田辻に変わっています)由緒ある地名を簡単に変えてしまうことは私たちのご先祖さまが営々と築いてきた歴史を消し去ることに等しいと思います。
1740年に建てられたお地蔵さん。
霊験あらたかなお地蔵さんです。
脇には、246挟んで反対側にある道祖神と対になる道祖神が祀られています。
名前 |
辻地蔵尊 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.3 |
昔は別の場所にあったのだそうです。