整地されて今のような姿となったそうです。
説明の掲示板には、東福寺が焼失した際、燃えた過去帳や経文等の灰を埋めたと書かれていますが、一方では江古田原・沼袋の戦いで戦死した豊島軍兵士の遺体を葬ったともされ、豊島塚の一つにも数えられています。
現在は地蔵菩薩と青面金剛(庚申塔)の舟形石像が祀られており、周囲には小休のための机と椅子も設置してありました。
特に切り株を加工した椅子が素敵です。
興味深い場所。
先日、寄らせて頂きました。
お地蔵様が並んでいます。
大正時代まではこんもりとした盛り土が残る塚でしたが、整地されて今のような姿となったそうです。
言い伝えでは、ここから北東400メートルほどにある東福寺が焼失した際の経文や過去帳の灰を埋めて築いたとされていますが、文明9年の旧暦4月13日(1477年5月25日)に、当時の武蔵国の江古田原・沼袋(現在の東京都中野区江古田・沼袋付近)で太田道灌と豊島泰経との間で行われた「江古田・沼袋原の戦い」における死者を弔う「豊島塚」のうちの一つだと言われています。
この近辺には、哲学堂の北東角の十字路の「四つ塚」をはじめ、そのような「豊島塚」があちこちに残っています。
名前 |
お経塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
民家の庭先にあるお経塚跡です。
夜間の訪問でしたが、蛍光灯がともされ、明るい状態で観ることが出来ました。
区立江古田小学校を挟んで北側にある東福寺がかつて火災に遭った時の経文や過去帳をなどの灰を埋め、塚を作ったと言われていました。
大正時代までは人の背丈ほどの塚だったそうですが、整地した時に人骨と共に経筒らしいものが出土したという記録があるそうです。
この人骨が意味するものが、東福寺の火災で亡くなった方の物なのか、それとも実は江古田・沼袋の合戦での戦死者を祀った『豊島塚』なのかは不明です。
ひとまず、東福寺の創建や火災がいつなのか、そこら辺から勉強しないと断定できる情報が少ない物で…。
次回は早い時間に東福寺や区立博物館に行けたらと思います。