というかまったく人がいません…のんびり見るにはいい...
法蓮北畑古墳(聖武天皇 佐保山南陵) / / .
とても素敵な御陵です。
私が近くに住んでいたら毎朝お散歩がてら参拝したいくらい。
拝礼所からまっすぐ行くと聖武天皇陵、途中を右へ行くと光明皇后陵です。
どちらの御陵も、鹿が住む静かな森に囲まれています。
朝早く来ると鹿の姿も見えるかも?
夫婦は一対の反射鏡なんですね。
独身なんでただただ憧れです。
聖武様、光明子様、ありがとうございます!!!!!!!
奈良市きたまちの一角にある、広大な敷地。
宮内庁管轄で簡素かつ神聖な雰囲気を感じることができる。
奈良市法華寺町の住宅街にある佐保山南陵(さほやまなんりょう)は遺跡名は「法蓮北畑古墳」(ほうれんきたばたげこふん)とも呼ばれ、第45代聖武天皇(しょうむてんのう)の陵墓とされています。
聖武天皇は東大寺創建など仏教政策に尽力されました。
また隣接する佐保山東陵は光明皇后(こうみょうこうごう)の御陵とされています。
第45代 聖武天皇(701〜756)は、文武天皇の第一皇子として生まれました。
天平年間に天然痘の大流行や災害が起こり、多くの国民が亡くなる惨事に見舞われ、仏教に深く帰依した聖武天皇は天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺(とうだいじ)盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)(通称、東大寺大仏)の造立の詔を出しました。
756年に56歳で崩御されました。
その後、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して、聖武天皇の御遺愛品など600点を越える品と、薬物60種類を本尊盧舎那仏(東大寺大仏)に奉献されました。
皇后の奉献は5回におよび、その品々は正倉院(しょうそういん)に収蔵されました。
これが東大寺正倉院の起源です。
あの聖武天皇のお墓がこんなところに?!と思うほどひっそりとあります。
静かで散歩してる人もほとんどいないですが、なんとなく厳かな気持ちになります。
ゴールデンウイークの時期には東大寺の山陵祭かなにかで、お坊さんたちが毎年行列してお参りする光景が見られます。
観光地ではないので静か。
陵墓まで続く参道の景色がとにかく荘厳です。
こころ安らかにお参りしましょう。
国分寺行脚をする者の聖地です。
やっと訪ねることができました。
繊細な天皇と豪快な皇后の関係が良く表れているような感じでした。
◾️ 聖武天皇 佐保山南陵第45代 聖武天皇陵国民の多くが天然痘によって死去した事に心を痛めた聖武天皇は信仰していた仏教に救いを求めて諸国に国分寺を建立。
東大寺に大仏を造営されました。
ほとんど、というかまったく人がいません…のんびり見るにはいいかも。
静かな所です。
聖武天皇と仁正皇太后(光明皇后、佐保山東陵)の御陵です。
小さな蓮池もあります。
静かな整然とした、凛とした雰囲気。
このあたりは民家が密集して天皇陵の前の道は一条通りですが、結構東大寺方面に抜ける車も多いところです。
その佐保川を渡るところが周りの地域とは別天地のように整然とした北の方へ延びる道があります。
ここが佐保山南陵(宮内庁)、在所の人は聖武天皇陵と呼んでいます。
この奥北東の所に光明皇后(仁正皇太后の陵があり、仲良く埋葬されています。
近くには佐保山保育園、西安のの森、鴻池運動公園、奈良女子大(江戸時代の奈良奉行所跡、幕末の川路聖謨はここに勤務)、眉間寺遺跡等があります。
第45代(生没 701年~756年(56歳) 在位 26年間)。
皇后は光明皇后(皇族以外の初の皇后である)。
仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺を設立した。
奈良に入ると聖武天皇陵にご挨拶に伺います。
白い鷲の様な鳥が陵の左手前、木の頭頂で、陵にいる間、ずっと止まっていた。
今回は、鶯が鳴き迎えてくれた。
不思議なこと。
聖武天皇741年全国に国分寺建立の勅を発した。
肥前国・唐津の手前、江北と小城の間の丘に廣厳城があり、城には薬師如来座像があった。
明治維新の神仏分離令廃仏毀釈で常福寺に一時的避難して、城は破壊されたため行き場のない仏像は今も常福寺に、今は瑠璃殿に格納された。
2017.08.12.(土) 16:15 初拝礼 (奈良斑鳩人)コチらの御陵には クルマで来たのですが先ず入口を見付けるのに20分程ウロウロし駐車場が無くトテモ苦労しましたヤット法蓮郵便局辺りから 行ける事が分かり長く真っ直ぐに伸びた 参道の突き当たりの石階段を上がった所に 御陵が有りました第45代聖武天皇は 奈良時代 724年~749年の25年間を在位し 24歳で天皇に成りましたまた 聖武天皇と言えば 東大寺の大仏様(国宝盧舎那仏像ルシャナブツゾウ)を勅願し造られた事で有名ですまた 藤原不比等の娘サンである 藤原光明子所謂 光明皇后が 聖武天皇の皇室としての奥サンですが ?コノ時代は ハチャメチャで 他に夫人なる方がいました ちなみにソノ方は県犬養広刀自(アガタノイヌカイ ノ ヒロトジ)とイイ舌噛むので おいそれと名前を呼べません!また 御陵としての 形は有るモノの ハッキリせず 古墳の形は山形と有るだけで安土桃山時代初頭の 武将である松永久秀が多聞城を築城の折に 墓をグチャグチャにしたトノ話しが有力で 実際のトコロ 規模 石室埋葬品等の記述が 有りませんてしたソノ様な事で 調べていても 結構ストレスが残る御陵でも有りましたしかし コノ場所から僅か東には 愛妻の光明皇后の御陵が有り 寂しくは無い様で ソレはソレで 良かったなぁーっと 思った次第でした!
予備知識なしで行くとなんのことはない史跡ですが、聖武天皇について学んでから行くと荘厳な雰囲気になります。
近鉄奈良駅からやすらぎの道を鴻池運動場に向かっていくと法蓮仲町交差点を右に曲がる。
転害門に向かって歩いて行くと佐保川の手前日照り側に参道が出てきます。
見るからに巨大な鬱蒼とした森で奈良時代、平城京においてさまざまな事績を残した聖武天皇墓らしい佇まいです。
夏真っ盛りの訪問でしたので参道脇の蓮がとても綺麗でした。
御陵の裏手に回ったら鹿が普通にいました。
やはり有名どころの天皇だけあって立派な御陵と敷地でした。
後世に多大な影響を与えた聖武天皇のお墓。
聖武帝は大仏を作って大枚を叩いたことだけで記憶されている方も多いと思いますが、帝の事績を辿っていると、決して平坦な人生ではなかったことが分かります。
ざっと振り返ってみると … 701年壬申の乱に勝利した天武直系の第42代文武天皇(夭折した草壁王子の子)の後継として誕生。
717年16歳で井上内親王(後にある人を呪殺したと疑われ他戸親王と共に幽閉されて謎の同日死、御霊神社に合祀)を授かる。
718年17歳で第46代孝謙天皇(後に曲者恵美押勝と怪僧道鏡を操った女帝、重祚して第48代称徳天皇)を授かる。
724年それまで中継ぎとして皇位を継いでいた第44代元正天皇が譲位、満を辞して23歳で即位(第45代聖武天皇)。
727年26歳でやっと男子基王を授かり生後1ヶ月で皇太子とするも翌年夭折。
729年政権を担当していた長屋王が、国家転覆を図っていると藤原四兄弟の陰謀で嫌疑が掛けられ、皇親政治で苦楽も共にしていた舎人親王に責められ、聖武帝が(恐らく騙されて)派兵に及んでいたこともあって自害(その長屋王の邸宅跡をそごうが潰してデパートを作り、後に倒産、イトーヨーカドーが買い取る。
そのヨーカドーはあと一年で経営合理化の為にこともあろうに奈良から撤退)。
737年天然痘が大流行して政府高官の殆どが死亡(ひとりだけ生き残った橘諸兄に全幅の信頼)。
光明子を立后(藤原氏が史上初めて正式な皇后に)740年大阪の知識寺に僥倖して巨大な仏像を(人の寄付で)作ることを思いつく。
藤原式家広嗣が仲良し遣唐使帰国ぐみ(吉備真備と玄昉)に嫉妬して叛乱。
いきなり恭仁京へ遷都。
741年全国にひとつずつお寺(国分寺)を建てるよう指示。
743年大仏(東大寺盧舎那仏)鋳造を指示。
行基を東大寺造営大勧進に起用して巨大な宗教団体の無償奉仕力をフル活用。
恭仁京造営を断念。
墾田永年私財法を制定(国是公地公民を崩壊させる)744年恭仁京から難波宮へ遷都、さらに難波宮から紫香楽宮へ遷都。
745年紫香楽宮から平城京に御帰還(一連の彷徨は相次ぐ災い忌避と壬申の乱に於ける大海人軍の追体験という説)749年「三宝の奴」と称して秘かに出家、周りは仰天、退位。
751年良弁を東大寺初代別当に任命。
752年東大寺大仏開眼法要(菩提僊那を起用)。
754年戒壇院を設立(長安から鑑真を招聘)756年道祖王(後に橘諸兄の息子奈良麻呂の乱で連座、獄死)を皇太子にと遺言して崩御。
享年55歳。
遺品が正倉院にて保存され今日に至る。
以上。
近鉄奈良駅から徒歩10分強で行けます。
鹿がこのあたりまで来るのか、参道にフンが落ちてました。
右手に光明皇后陵があります。
鴻ノ池競技場のすぐそばにあったんですね。
厳かな雰囲気でキレイに管理されてました。
日本史では国外の脅威、地方豪族の反乱、疫病とご苦労が多かったと思います。
今の日本があるのも苦労を積み重ねてくれた人々のおかげと思っています。
名前 |
法蓮北畑古墳(聖武天皇 佐保山南陵) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0744-22-3338 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
東大寺に行った方は、こちらにも行きましょう的なところです。
奈良天平文化の花開くなか、東大寺大仏建立と言えば、このお方です。
脇には皇后の御陵もあります。
静かにたたずんでいらっしゃいます。