頭上の樹にたくさんのダイサギやアオサギがとまって鳴...
2023/04/19Wedゴイサギが巣を作っていました。
土塁の盛り土の頂にある神社。
古びた社殿で独特の雰囲気。
周囲の樹木はシラサギ?が数多く巢?を作って生息しています。
頭上の樹にたくさんのダイサギやアオサギがとまって鳴いている。
地面には白い羽根が散乱していて、荘厳で神々しい雰囲気。
館林城を護っていた神社です。
今は少し移設されてここにあります。
「八幡神はちまんしん」は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に「八幡宮はちまんぐう」として勧進かんじんされています。
この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として館林城の「八幡郭はちまんぐるわ」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたものです。
明治になって、廃藩とともに尾曳おびき稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた、「上毛モスリン株式会社」によって現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎ほうさいされました。
館林市教育委員会(説明板より)
名前 |
八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.5 |
八幡神社応神天皇を祀る。
鎮座地が城内であり、八幡曲輪と呼ばれた。
当時は尾曳稲荷と同じ扱いであったが、資金的に乏しい時があり、尾曳稲荷に合祀された。
江戸時代には平日は女人の出入り厳禁で、8月15日の例祭日には其の禁がとかれた とある。
社殿の一宇は本丸跡となる上毛モスリン会社の遊園地内に移して、今も存在している。
❶【参考 尾曳之跡 大正12年(1923年)】八幡神社赤井氏築城の時に勧請された。
尾曳稲荷曲輪(※1)に対して八幡曲輪(※2)本丸守護の右翼と云われる。
当時は尾曳稲荷と八幡神社は同等の扱いを受けてきたが、廃藩置県後、堂宇保護の資金に貧しく、神徳をけがすのをおそれて明治40年12月尾曳稲荷に合祀した。
社殿の一宇は本丸跡となる上毛モスリン会社の遊園地内に移して、今も存在している。
秋元家時代の頃の八幡神社は、城門東追手の楼上に、東照公(徳川家康公)の像と秋元泰朝(やすとも)公の甲冑とを安置されていた。
腐女子の出入りを厳禁していて、藩士の家族と言えども平日は参詣できなかったという。
されど、毎年8月15日の例祭には其の禁を解いて、自由に参拝することが許されたという。
※1稲荷曲輪・・御城図では明地とある・本丸の北側に位置する※2八幡曲輪・・御城図では八幡曲輪とあり本丸のすぐ東に位置する[祭神] 誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)