ここにあった頼朝の御影の前で自刃した。
鎌倉第三代執権の泰時が亡くなった後、ついに北条に対抗した三浦が最後に籠った場所らしい。
頼朝や義時の墓のあった寺跡なので、それらのすぐ近くにあります。
北条時頼らによって三浦泰村・光村ら三浦一族が滅亡した地、ここにあった頼朝の御影の前で自刃した。
三浦の力を恐れた北条に滅ぼされたとも言えるが、安達氏により幕府ナンバー2の座を奪われたという見方もできる。
鎌倉時代特有のやぐらである。
やぐら(横穴に掘ったお墓)がありますこの地にて宝治合戦に破れた三浦一族が自害されたといわれています源頼朝のお墓があった法華堂に立て籠もっていたそうですやぐらは今でもそうですが居住に適した土地が少ない鎌倉ではよく見られるお墓で未だその遺構が各所に残っております。
『鎌倉殿の13人』の人気キャラ三浦義村殿の一族が埋葬されてるそうです。
人気俳優が演じていただけあって訪れる女性が多そうです‼️
宝治合戦で自刃した「三浦泰村」と一族、郎党の五百人が葬られたとされる「やぐら」。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響かでノボリと解説板が設置されています。
「実際の自刃場所は、合戦時に立て籠った頼朝の法華堂とされる」との案内板。
宝治合戦で自刃した「三浦泰村」と一族、郎党の五百人が葬られたとされる「やぐら」三浦宗家滅亡の現場ではあるが、その原因となった北条氏ゆかりの法華堂が隣にあるのは、少々やるせない。
2022.04追記大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響か、解説板が設置された様だ。
解説にある「276人」は家人の数であり一族子女を総じて五百余名と伝わる。
また「供養されているやぐら」とされているが、そもそも泰村の墓所は他には無く、実際に埋葬されたとは考え辛いが、一応は墓所である。
【注】実際の自刃場所は、合戦時に立て籠った頼朝の法華堂とされる。
また、三浦宗家は義村の四男「家村」が宝治合戦で行方不明になった事が「吾妻鏡」に記載されている。
江戸時代、美作国勝山藩の藩主は、この家村の後裔を自称しており、真偽は確認出来ないが血筋は続いている事となる。
歴史的経緯については先達にお任せいたします。
法華堂については註釈があるにかかわらず、三浦一族のやぐらとの案内がないので、正確にここだかどうかわかりませんが、お山の神気の中に、歴史の重みが空気に乗せられている気がしました。
なぜか石階段を登るのを阻むような感じで下向きにつけられている気がしました。
これも三浦一族の怨念か??そうは言うものの、誠に春ののどかな光の中、緑の開けた広間に案内されました。
鳥居をくぐり2つに分かれた階段の奥の亀の石碑の表情に何とも俺たちの無念を聞いてくれって言われている気がしたのではありますが、穏やかにお眠りくださいというしかありません。
鎌倉ってこんな場所多いですね、、。
喧騒から離れた鎌倉の土地。
ゆっくりと歴史を思い、三浦一族の無念を感ずるこの地を巡礼されてはいかがでしょうか?
宝治合戦で頼朝の墓所(法華堂)に立て籠った三浦一族が一族で自害したあと葬られた場所らしいです。
名前 |
三浦一族のやぐら |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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2024年3月29日に訪れました。
宝治元年1247年の宝治合戦により、三浦泰村以下一族276人は、5代執権北条時頼に攻められ、源頼朝の法華堂に立て籠り、自害したと伝えられています。
横穴式墳墓の中に供養塔が建っています。