彰義隊士のお墓がある「百観音」円通寺。
上野の山の戦争で、彰義隊と官軍が激しく戦ったとき、中心にあった「黒門」。
無数の弾痕が見える。
明治40年、円通寺に移築・保存されている。
補陀山圓通寺は791年(奈良時代末期)に、坂上田村麻呂が創建したという歴史のあるお寺だそうです。
大河ドラマ青天を衝けのエピローグで、このお寺に、幕末に渋沢成一郎(喜作)ら彰義隊が新政府軍からの一斉攻撃を受けて壊滅した大勢の兵士のお墓と、戦いの痕跡の残る上野黒門がある。
との事でしたので、一度お詣りしたいと思ってました。
お寺じたいは、普通のお寺と違い、ビルの上に大きな観音様がいらしてちょっと驚きました。
手書きで綺麗な御朱印を頂けました。
JR.常磐線南千住駅徒歩10分位です。
大河ドラマ『青天を衝け』第24回、喜作含む彰義隊は新政府軍と上野で戦う。
円通寺に移築された寛永寺旧黒門にはその時の弾痕が残ってます。
放置された彰義隊士の亡骸もこのお寺には埋葬されてます。
黒門を近くで見ると、凄い銃弾の跡が…💦
寛永寺黒門が移築され、亡くなった彰義隊隊員の墓石がある。
南千住にある聖観世音菩薩で知られます高さ12メートル。
本来の観音像から、かけ離れた、その姿は一見の価値ありです。
曹洞宗のお寺で、御朱印を頂きに参拝。
開基は坂上田村麻呂で、源義家が再興したそうです。
上野戦争の折り、新政府軍に破れ放置されていた彰義隊隊士の遺体を、当時の住職が新政府の咎めを怖れず荼毘に付し、こちらの境内に葬った経緯から、明治40年に寛永寺黒門の移設が行われた。
その黒門には無数の弾痕が残り、上野戦争の凄まじさを今でも感じさせてくれます。
上野戦争でダメージを受けた寛永寺の黒門が当時のまま弾痕も生々しく移築されています。
彰義隊の墓もあり歴史マニアは立ち寄りをお薦めします。
御朱印の頂ける御寺です。
境内には彰義隊のお墓や上野戦争での弾痕が残る黒門もあり、歴史好きの方にもオススメです。
遠くからよく目立つ塔が特徴的です。
それ以外にも1700年代の地蔵などがあり、渋い。
日比谷線三ノ輪駅から日光街道沿いに北へ行くとあります。
開基はとても古いようですが、建物は近代的ですぐに解ります。
広い境内の一角に彰義隊隊士の墓とその手前に上野公園から明治40年に移設された上野寛永寺総門(黒門)があります。
黒門には上野戦争での弾痕が生々しく残っています。
入ってすぐに右側に彰義隊隊士の墓。
その左側には彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて供養していた「死節之墓」が移築されてます。
側面には亡くなった佐幕派藩士の名前とともに近藤勇と土方歳三の名もあるそうですが、ハッキリとは見えませんでした。
地下鉄メトロ散歩南千住に行ってきました(2019年3月24日)。
円通寺の桜が咲き始めています。
今週末ぐらいが見頃でしょうね(*^^*)
平成30(2018)年4月の下旬に参拝。
御朱印を頂きました。
高い所から観音様が町を守っていると言うほどの高さにいらっしゃります。
ご住職も忙しい手を止めて御朱印を書いていただいて感謝いたします。
力のある素晴らしい御朱印です。
ありがとうございました。
上野黒門と彰義隊のお墓になぜが新門辰五郎のお墓に昭和38年の吉展ちゃん誘拐事件での発見現場での慰霊碑が有りました。
2017/7/4拝受 よしのり地蔵のあるところが吉展ちゃんの遺体が発見された場所。
御朱印の墨寺、百観音は大東京百観音霊場の意味では無くて、昔、門前に観音堂があったため、百観音と呼ばれた通称寺であったことに由来する。
史跡が多数あります。
御朱印頂きました!
彰義隊士のお墓がある「百観音」円通寺。
坂上田村麻呂が、延暦10年(791)に開創したと云われています。
本堂の上部には観音様、その後ろには7重の塔が聳え立ちます。
境内の右方には首塚と七重の塔があり、その手前に三代将軍家光の鷹見の松が植えられています。
彰義隊士の供養が縁となり、明治40年に移築された上野寛永寺の総門「黒門」は荒川区の指定文化財です。
何の説明書きはありませんが、境内の傍らには「よしのぶ地蔵」があります。
昭和38年3月31日、下谷で誘拐・殺害された、「村越吉展」ちゃんの供養の為に建立されました。
円通寺は遺体の発見現場だそうです。
人命尊重のための「報道協定」も、初めてなされた歴史的な事件として記憶に刻まれています。
名前 |
円通寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3891-1368 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
歴史ある上野戦争時の建造物も見ることができます。