民家の脇、公道の上に石碑が有ります。
「武士の鑑」畠山重忠の屋敷跡。
いまは住宅街の一角に過ぎませんが、それを示す石碑に味わいがあります。
鎌倉の街のそこここに見られる史跡碑は、大正12年3月(関東大震災が襲う半年前)に、鎌倉町青年団が建てたもの。
隷書の表題と、説明の簡勁な文語体が、質実な武士の都らしい風情を漂わせています。
2022.11.20鶴岡八幡宮から御所へと通じる道沿いで、八幡宮へは門を隔ててわずか1分。
御所へも数分の距離だ。
いかに重要な人物であったかが理解できる。
鎌倉八幡宮の前を通る流鏑馬道を進み鎌倉国宝館を左手に見ながら通り過ぎた先に、守衛さんの居る鳥居が見えてきます。
その鳥居をくぐったすぐ前の交差道路右角に「畠山重忠邸址」の石碑のみひっそりと立てられています。
注意しないと通り過ぎて鎌倉街道まで進んでしまいます。
石碑のみですが、畠山重忠邸址の目の前にある横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校は鎌倉時代の将軍御所(大倉幕府)跡地の一部に建てられており、応時の将軍御所や鎌倉八幡宮の直近に畠山重忠邸が位置していることが分かり、鎌倉殿からの信頼度の高さが実感できる場所となっています。
民家の脇、公道の上に石碑が有ります。
遺構は0で石碑だけですが、畠山重忠邸があったと言う事が分かります。
鶴岡八幡宮境内を入って東の方の出口を出てすぐのところに畠山重忠邸跡の石碑があります。
石碑だけです。
2022年のNHK大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では中川大志さんが演じてます。
鶴岡八幡宮から頼朝の墓に向かうルートにありますね八幡宮の鳥居出てすぐのとこです源頼朝に尽くし最後は北条時政に権力争いの末滅ぼされた悲運の武士の邸宅跡です彼を滅ぼしたことで北条家は権力を集中させ国政を一手に担うことになるのです。
鎌倉殿を支えた坂東の一人「畠山重忠邸跡地」
武州菅谷館の武将の畠山重忠公の館跡二俣川の戦い、畠山重忠の乱まで、源頼朝の側近に、なりながらも、居た場所。
地元埼玉の武将の館跡。
畠山重忠は武蔵国男衾郡畠山郷を領した鎌倉時代初期の武士で、忠義に篤く質素を好み、坂東武士の鑑とされる人望を集めた御家人でした。
しかし、北条氏の陰謀により、元久2年6月22日に二俣川で討死にをしました。
源頼朝のボディーガードを大平内閣総理の祖先(近藤国平と務めた)国平の四男の大平国盛が大平正芳の祖先。
源頼朝の有力武将・畠山重忠の屋敷があった場所。
鎌倉八幡宮境内東門にあった。
畠山重忠は頼朝死後、北条氏の謀略で二俣川の合戦において戦死。
名前 |
畠山重忠邸址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
源頼朝墓から鶴岡八幡宮へ近道の抜道を通ろうとすると有りました。
源頼朝次女三幡の診察をした医師もこの屋敷に滞在したと碑文に書かれています。