名前 |
神戸市立浜山小学校 |
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ジャンル |
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電話番号 |
078-651-3890 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
☆「一場の夢 二人のひばりと三代目の昭和」の作者西木正明は、力道山が建てた東京都港区赤坂のリキ・マンションのプール跡に建てられた赤坂パインクレストに住んでいた。
細木数子も住んでいた。
西木正明の義理の叔父はリキ・マンションに住んでいた映画プロデューサーの小笠原武夫だった。
パインクレストの真ん前にある魚屋は美空ひばり一家御用達として知られていた。
1974年9月赤坂パインクレスト8階の西木正明の部屋に叔父の小笠原武夫と新橋銀座一帯を縄張りにしていた住吉連合会系の波木組三代目で男前の波木量次郎りょうじろうが訪ねてきた。
波木量次郎は芝大門の芝パークホテル斜向かいの三條マンションに住んでいた。
その頃西木正明は週刊平凡のキャップを務めていたが、二人の話す大都映画の初代美空ひばりについては初耳だった。
1981年7月美空ひばりの守護者にして母親の加藤喜美枝が前田外科病院で亡くなった。
一番札の霊山寺、二番日照山極楽寺、三番亀光山金泉寺こんせんじ、四番黒巌山大日寺、三加茂の岡田一雄の生家。
西ノ庄の高木にある。
西木正明は沖田源三とお遍路さんを共にしながら沖田の幼馴染みの山口組三代目、田岡一雄の話を聞いた。
生前に父親を亡くした田岡一雄は、元三庄尋常小学校にほんのちょっと通った後、母親もなくして神戸の叔父に引き取られこの村を出た。
生家は学校のすぐ側にある1919年9月神戸市兵庫区の浜山尋常小学校で二学期が始まった。
学童の大半は下請け工場の工員が港湾労働者の子弟だった。
一年生の沖田源三はガキ大将だった。
そこに様子を伺う様な大人しい田岡一雄が転入してきた。
1921年11月沖田源三が田岡一雄を福原の女郎の子供やろ、となじったところ、田岡一雄が激怒して沖田は殺されかけた。
その後、田岡一雄の学内での立場は一変した。
そして沖田に心を開く様になった。
田岡一雄は生前に父親を亡くし、小学校一年生で母親も亡くし、叔父で神戸の港湾荷役の現場監督を勤める河内和四郎に引き取られた。
1925年二人は浜山尋常小学校を卒業し、兵庫尋常高等小学校に進学した。
同級生に温和な性格の初代山口組組長、山口春吉の息子の山口秀雄がいた。
1915年山口組は沖仲仕供給を行として西出町で発足した。
1926年山口組二代目山口登は山口組の発展を企図して鶴酒藤かくしゅとう兄弟会けいていかいに加入した。
鶴酒藤兄弟会とは、横浜港の港湾人供給業の鶴井組、酒井組、藤原組の3人の組長が兄弟分の盃を交わして設立した業界組織だった。
1927年田岡一雄は兵庫尋常高等小学校を卒業し、地元の川崎造船に旋盤工見習いとして入社した。
しかし第一次世界大戦の反動の不況の中、首切りで人手の減った工場でちょっとした諍いから上司に殴られて殴り返し、大怪我を負わせた。
そのまま工場から逃げて神戸の新しい歓楽街、新開地に辿り着いた。
しばらくしてそこでかつての同級生、山口秀雄と出会った。
その頃山口組は新開地で用心棒業を営むようになっていた。
一方沖田源三の就職した横浜港の荷役業、東海荷役の事務所は万国橋の辺りにあった。
1937年2月神戸の劇場、菊水館の支配人、前田が、恐喝の常習犯で山口組を破門された大長政吉にボコボコにされた。
田岡一雄は福原遊廓の第一大阪楼にいた大長政吉の頭に鉄瓶を叩き付けた。
仕返しにやってきた弟の大長八郎を田岡一雄は斬殺した。
田岡一雄は即決裁判で懲役8年の判決を受けた。
1937年5月美空ひばりが生まれた。