新薬師寺のお隣とても気持ちの良い神社です⛩前回は貰...
朱色のお社が綺麗なお宮さま。
それもそのはず、春日大社の遷宮の際、第三殿が移築されたとの事。
お詣りさせて頂けありがっ様です。
新薬師寺の隣にある小さな神社です。
鏡神社本殿は春日大社の旧本殿で当初の部材がよく残っているそうです。
小さいながら見応えありな神社です(´∀`)
場所は新薬師寺のすぐ横ですのでアクセスは新薬師寺同様あまり良いとは言えません。
JR奈良駅からバスに乗り破石町バス停で下車。
そこから歩くこと割とたくさんという感じでようやく到着します。
薬師寺の南門のすぐ横にあります。
806年(大同元年)に新薬師寺の鎮守として創建されたという歴史があるようです。
本殿は春日大社の本殿を移築したものらしく当時の部材もよく残っているのだとか。
なかなか由緒正しい神社ですね。
新薬師寺のお隣🍀とても気持ちの良い神社です⛩前回は貰えなかった御朱印今回は頂きました♪
新薬師寺のすぐ横にあります。
こじんまりとした神社です。
前日にNHKのテレビを見ていたので気になって行きました。
新薬師寺のすぐ近くです‼️
祭神主祭神 - 天照皇大神、藤原広嗣、地主神ここより西の福智院に玄昉の弟子報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まり。
大同元年(806年)にこの地に移転し、新薬師寺の鎮守社とされた。
代々に渡って春日大社の本殿を下賜されてきたことから、この神社が藤原氏を祀る神社としての格の高さがうかがえる。
本殿は、延享3年(1746年)に春日大社の本殿・第三殿を譲り受け、移築されたものである。
一間社春日造建築で、奈良市指定文化財となっている。
春日大社をお参りの際に、地図で見つけた鏡神社気になったのでお参りに行ってきました行った時間も16時頃だったということもありますが、大きな神社ではないので静かでこじんまりしており過ごしやすかったです。
新薬師寺さんにお参りさせてもらって帰りにお参りさせてもらいましたが、お参りさせてもらって良かったなと思う良い神社でした。
新薬師寺の隣です。
1746年に春日大社から移された由緒ある神社であると記されてます。
簡素な神社。
歴史はある。
新薬師寺の傍らに鎮座されてます。
「山の辺の道(北)/万葉の道」巻十二の一の八 奈良市高畑町鏡神社(かがみじんじゃ)こちらの神社で私が何より興味深いのは、春日大社が毎々大社の新神殿のご造営の際に旧神殿を下賜され、またそちらの神霊も他の新神社へ分祀されるということです。
全国で1000ほどある春日神社も、藤原氏の隆盛とともに増加の一途をたどってきました。
この美しいお姿がずっと明治維新後から変わらず続いてきたことは素晴らしいことだと思いました。
この後、白毫寺に至るまでは数多くの道標がありますし、通常は石造の万葉歌碑ばかりですが木製の「万葉歌詠標」も登場します。
ちなみに、この社から東へ100メートルの所にその立て札様の詠標が立てられています。
現在は消えていますが、5年くらい前の画像では判明しているので今一度ここに書き記しておきます。
【万葉歌詠標】狩高の 高円山を 高みかも出で来る月の 遅く照るらむ万葉集 巻六 - 981 大伴坂上郎女猟高の高円山が高いせいなのかしらいで来る月がこんなにも遅くなって輝いているんです※ 高円山とは現在立っていらっしゃるそこから見ておおよそ東の丘陵地帯です。
北の春日山と東の高円山の間を流れる『能登川』も万葉歌に詠まれています(少し南へ進むとその能登川を渡ります)。
そこにも詠標が立っていますが、「能登川」を詠った万葉歌です(これもまた消えかけています)《巻10の1861 詠人不知》。
「山の辺の道(北)/万葉の道」巻十二の一の八 奈良市高畑町鏡神社(かがみじんじゃ)こちらの神社で私が何より興味深いのは、春日大社が毎々大社の新神殿のご造営の際に旧神殿を下賜され、またそちらの神霊も他の新神社へ分祀されるということです。
全国で1000ほどある春日神社も、藤原氏の隆盛とともに増加の一途をたどってきました。
この美しいお姿がずっと明治維新後から変わらず続いてきたことは素晴らしいことだと思いました。
この後、白毫寺に至るまでは数多くの道標がありますし、通常は石造の万葉歌碑ばかりですが木製の「万葉歌詠標」も登場します。
ちなみに、この社から東へ100メートルの所にその立て札様の詠標が立てられています。
現在は消えていますが、5年くらい前の画像では判明しているので今一度ここに書き記しておきます。
【万葉歌詠標】狩高の 高円山を 高みかも出で来る月の 遅く照るらむ 万葉集 巻六 - 981 大伴坂上郎女猟高の高円山が高いせいなのかしらいで来る月がこんなにも遅くなって輝いているんです※ 高円山とは現在立っていらっしゃるそこから見ておおよそ東の丘陵地帯です。
北の春日山と東の高円山の間を流れる『能登川』も万葉歌に詠まれています(少し南へ進むとその能登川を渡ります)。
そこにも詠標が立っていますが、「能登川」を詠った万葉歌です(これもまた消えかけています)《巻10の1861 詠人不知》。
新薬師は聖武天皇と光明皇后、お二人の個人的な祈りの場。
鏡神社は明治維新の神仏分離までは新薬師寺境内にあった。
聖武天皇の眼の病の治癒を祈願して建てられたと言われている。
その様な点から見ると薬師寺が天武天皇と持統天皇の愛の結晶の様なお寺である事に対応している。
なお、薬師寺との違いは、光明皇后の僧玄昉との不倫の懺悔でもある、と言う点が異なるようだ。
太宰府に赴任していた藤原広嗣が、朝廷が不穏な状況の原因が玄昉であるとして討伐のために兵を挙げて結局は賊軍として殺されている。
その広嗣を祀る鏡神社が新薬師寺境内に存在することがそれを表している、と梅原猛は「塔」で述べている。
本堂は元々はここより西に本堂があった。
この建物は当時食堂か何かに使われていた建物との事。
また、鏡神社は明治後に神社として別になっているが新薬師寺の一部であった。
また、この新薬師寺は光明皇后が改心して僧玄昉を太宰府の観世音寺に流されその翌年に死去している。
新薬師寺の参拝時にセットでお詣りしたらよりご利益を頂けると思います。
新薬師寺の鎮守として春日から勧請されたと伝わるが、明治の廃仏毀釈で分離。
新薬師寺門前に鳥居があるが、社殿は南向きで、南側に割拝殿がある。
割拝殿から先は階段になっているが、そこには鳥居がない。
なんか不自然な気もするが…。
社殿横の紅梅が細やかながら、彩りを添えていてよかった。
新薬師寺のお隣に鎮座する神社です。
春日大社から神様を招いたとされています。
大きな神社ではありませんが、静かな雰囲気で良いです。
奈良市写真美術館の東側、新薬師寺の隣に鎮座。
社伝に、遣唐使発遣の祈祷所たりし当地に、平城天皇御宇大同元年、新薬師寺鎮守として奉祀せられしとある。
本殿について、記録に春日大社第四十七年次式年造替の延享三年(一七四六)に、本社本殿の第三殿を鏡神社へ譲渡したとあり、さらに昭和三十四年の本殿修理中には、屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が二か所で発見されている。
春日大社本社の旧本殿(一間社春日造、桧皮葺)であった、鏡神社の本殿は、当初の部材がよく残るとともに、移築の経緯も記録に残っていて貴重である。
2017.08.12.(土) 15:10 初参拝 (奈良斑鳩人)鏡神社は 新薬師寺の境内とは 分離されていますが 元々は同一境内に有ったモノで明治維新に発令された 神仏分離令の影響でコノ様な状態に有ると思われますまた設置の説明板には 新薬師寺の鎮守とし春日大社より勧請・・と有り南都鏡神社は 平安時代初頭の806年に創建され 天照皇大神(アマテラスオオミカミ)と藤原 広嗣(奈良時代の官職貴族)と 地主神が 御祭神として祀られています各社殿は 比較的小さな拝殿の背後に ヤハリ小ぶりな 春日造で檜皮葺の本殿が佇み 江戸時代中期の1746年に 春日大社から譲渡され 移築したモノで 現在の社殿は1959年(S.34)に修理されたモノで ソノ際に 譲渡された内容や年号が記された墨書が発見され また修理以前の部材が 今の建物に多く残っており 貴重だとも説明板に有りました。
参拝者が誰も居なく、静かでした。
新薬師寺お隣です。
新薬師寺の隣にあります。
静かな神社です。
奈良市写真美術館の東側、新薬師寺の隣に鎮座。
社伝に、遣唐使発遣の祈祷所たりし当地に、平城天皇御宇大同元年、新薬師寺鎮守として奉祀せられしとある。
本殿について、記録に春日大社第四十七年次式年造替の延享三年(一七四六)に、本社本殿の第三殿を鏡神社へ譲渡したとあり、さらに昭和三十四年の本殿修理中には、屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が二か所で発見されている。
春日大社本社の旧本殿(一間社春日造、桧皮葺)であった、鏡神社の本殿は、当初の部材がよく残るとともに、移築の経緯も記録に残っていて貴重である。
御祭神は藤原式家の祖である藤原宇合の子で、文武の才に秀で五異七能の才といわれた秀才、藤原広嗣公。
740年、太宰府から玄昉と吉備真備を非難した上奏文を出したところ、橘諸兄に追討軍を出されて憤死した悲運の人。
ご祭神 / 天照皇大神、藤原広嗣、地主神春日造りの立派な本殿です。
藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられています。
本殿は春日大社のお下がりで、市指定文化財。
名前 |
南都鏡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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新薬師寺の隣にある神社⛩️です。
お賽銭の横に無人の朱印があります。