横浜金沢シティガイド協会主催の横浜金沢七福神巡りに...
歴史ある曹洞宗の綺麗なお寺です。
金澤七福神巡りで訪れました。
中に入って拝ませて頂きました。
正月限定で七福神をお参り出来て良い一年になりそうです。
七福神 で訪れました。
小ぢんまりとしたお寺です駐車場はあります。
山門をくぐると綺麗に手入れされた境内。
心が洗われました。
墓所も綺麗に管理されていて清々しく、落ち着いてお参りができました。
立地的に分かりやすく駐車スペースも広いしキレイである。
住宅外の中にありますが、静かなお寺でした。
とても良いお寺です‼️住職は、もちろん‼️奥様も良いかたです。
御朱印も頂けます。
禅宗のお寺です車で直接入れます。
穏やかなご住職と奥様です。
厳かな雰囲気です。
横浜市金沢区七福神「毘沙門天」が祀られている嗣法山伝心寺。
御朱印を添付するので、参拝できない人にも福が訪れることを願います。
京急線「金沢八景駅」より徒歩10分。
住宅街の中にひっそりと佇んでいました。
曹洞宗のお寺で創建は宝治元年(1247年)。
開基は執権・北条時頼とされておりご本尊さまは釈迦如来さま。
他に普賢菩薩さま、文殊菩薩さまが祀られています。
スポーツの試合や受験、開運出世や厄除けにご利益があります。
綺麗なお庭と静かな空間にホッとしました。
金沢区七福神巡りの毘沙門天さまが祀られています。
細い道の先にあるお寺です。
駐車スペースも10台くらい。
開かれたお寺u0026とても親切。
金沢文庫、区役所の近くにあります。
主人の母が眠って居るお寺です。
静かな所です。
横浜金沢七福神もあります。
江戸時代までの正式名・・・大永峯嗣法山 傳心寺戦国大名、小田原北条家の殿様が直々に開いた御寺で寺紋も北条家の三鱗紋に〇の意匠の物の使用を許されている由緒正しい御寺。
伝心寺は現在の山号は嗣法山と簡略化され寺名も伝心寺と簡体字化されている。
そして北条氏繁公の開基と“金沢区観光協会の誤伝拡散で誤って”伝承している。
これは簡単に説明が着くし新編武蔵風土記稿では江戸時代にも更に誤った寺伝で江戸期には“北条氏直公の開基”と伝わる旨記載が有るがコレにも誤りだろうと指摘が注釈されている。
至極簡単な話で、曹洞宗は世襲制では無かったので当然、和尚様が代替わりすると話がごちゃ混ぜに成る。
正しくは大永峯嗣法山傳心寺と言う名前で、開基は大永元年。
大永元年(1521年)には天文五年(1536年)生まれの北条氏繁公も、永禄五年(1562年)生まれの北条氏直公も当然この世に存在していない(笑)。
恐らく傳心寺開基は北条家二代当主の北条氏綱公で、御寺に供養塔が有るのは、その子息の玉縄城主だった北条為昌公だ。
現在、金沢区観光協会が北条氏繁公の開基と紹介してしまっているが、これは教育委員会が悪い(笑)。
教育委員会は全く仕事をしないで県下のありとあらゆる全国的に見ても貴重な城址や宗教聖地や古墳を‟開発利権を害さない様に配慮”してきて破壊黙認してきた組織なのだが・・・「文献にさえ記載が有ればOK」「責任取りたくない」・・・と言う姿勢が見え見えなのだ。
小生がこの寺伝を寺と観光協会に言わせている教育委員会を非難する根拠と成る歴史事実が有る。
では伝心寺その物から少し脱線して北条為昌公の為に曹洞宗の和尚様達を尊敬する小生が教育委員会に代わり伝心寺と北条家の関わりを解説してみよう・・・先ず、北条氏繁公が開基した御寺として金沢区の伝心寺絡みの御寺が実は横浜市内に存在する。
デュオ歌手“ゆず”の地元、磯子区岡村町に存在する泉谷山龍珠院で、この龍珠院こそが北条氏繁公が堂宇を建立し本格的に“傳心寺の末寺”として再興開基された寺院だ。
もっと突っ込んで言うと氏繁公の父君の北条綱成公が支援した仏教の草庵が前身で、そこを本格的に寺院化している事が新編武蔵風土記稿にも解説されている。
つまり、金沢区観光協会の解説は傳心寺の物では無く末寺の龍珠院の開基の伝承がいつの時代か混濁されたままコピペ紹介されている事が江戸時代の記録からも戦国時代の文書からも判る。
この金沢区観光協会の事実誤認の原因は、彼等が教えを請うた“教育委員会の杜撰(ずさん)な仕事のせい”な訳だ。
さて、もう北条氏直公説なんぞ解説するまでも無く“事実誤認”で有る事は明白なので端折る。
・・・話を傳心寺に戻す。
時代的には傳心寺は大永元年(1521年)の開基とされるので、その時期に付近に関わっていた北条家の人物が開基した事に成るだろう。
少し後に玉縄城主と成る北条為昌公が永正十七年(1520年)に生まれたばかりで1歳で御寺を開ける訳も無い。
新編武蔵風土記稿では父親の北条氏綱公の開基だろうと指摘している。
為昌公の祖父の北条早雲公は為昌公の生誕の前年、永正十六年(1519)に亡くなっているので当然北条早雲公の開基の筈も無い。
だから小生も新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信(ことのぶ)公と同意見で北条氏綱公の開基で間違い無いだろうと思う。
恐らく北条氏❝綱❞と北条氏❝繁❞の字を、草書体を読めなかった近現代の学者が誤読して取り違えたんだろう。
そして、この御寺に「玉縄城主の御墓が在る」と伝承していたので先入観から北条氏繁公の御墓と決めつけてしまったのだろう。
因みに江戸時代の北条氏直公の説は簡単に何故誤認されたが説明がつく。
傳心寺の直ぐ近くには龍華寺と言う真言宗寺院が存在する。
源頼朝公と文覚上人が一緒に金沢区六浦に築いた浄願寺が戦火で略奪され廃寺に成っていたのを、現在地の洲崎地区に存在していた光徳寺と合祀して、太田道灌公と菅原資方公によって再興開基された寺院なのだが、昭和初期まで付近一帯は“金沢八景”と呼ばれる景勝地として有名で海に面した眺望は戦国武将達も愛されたので太田道灌公、北条左京太夫(さきょうだいふ)、徳川家康公等が、この龍華寺を支援して宿舎として滞在した歴史が有る。
当時は龍源寺と言う名前だった。
北条家の当主は代々、“左京太夫”の官職を継承するので、この寺に滞在した北条左京太夫の正体は、北条早雲公から始まる北条家歴代当主の誰かと解る。
しかし名前が無いと誰かは年代からしか推測出来ないのだが、北条家の前の小田原城主の大森家の生き残りである大森龍王丸が剃髪して龍華寺で僧侶に成り北条左京太夫が永楽銭7貫文と金沢権現堂山を寺領として保証している記録が有る。
北条早雲公の生前の名は北条姓では無い。
本名は伊勢 盛時 入道名:宗瑞だ。
大森家を西湘から駆逐して相模国中央部の岡崎城を陥落させ、鎌倉郡の大庭城と大住城を陥落させ、三浦郡の新井城を陥落させ、この金沢区一帯に支配権を確立したのは“北条早雲公”の時代なので龍華寺に寺領保証の朱印を発給したのは北条早雲公か跡継ぎの北条氏綱公だろう。
そして北条家が元の“伊勢”姓から“北条”姓に改称したのは北条氏綱公の代の事なので、龍華寺に関与し滞在した北条左京太夫は北条氏綱公だった事が解る。
つまり金沢区一帯に深く北条家が関与した時代の当主は北条氏綱公なので時代的にも必然的に傳心寺を大永元年に開基した可能性が高い人物は北条氏綱公と成り、小生と新編武蔵風土記稿の編集者で玉縄北条家の家老間宮家の子孫である間宮士信公の推測を証明してくれる材料と成る。
しかし、これも龍華寺を直接参拝せず新編武蔵風土記稿だけ読んでいても解らない事だ。
玉縄城主だった人物が、兄の北条氏康公を差し置いて三代目当主に成ろうとした動きが後の玉縄城主北条綱成公と混濁されているが、これは恐らく北条為昌公の話だろう。
北条為昌公は烏帽子親が筆頭家老の大道寺盛昌公、名を同じく筆頭格の重臣である笠原信❝為❞公と大道寺盛❝昌❞公から貰っているので、嫡男の氏康公の廃嫡を画策出来るのは彼以外におらず、更に1530年代後半に行われた鶴岡八幡宮再建では北条一族で伯父の神保輝廣公が買い会計関連と屋根に使う檜皮の調達と施工管理の奉行として頻繁に玉縄城近くの鶴岡八幡宮に出入りしていたので神保輝廣公とも兄の北条氏康公廃嫡の謀議を重ねたかも知れない。
実際に為昌公は1539年~公文書に登場しなく成り1542年に23歳の若さで亡くなっているのも1541年に北条氏綱公が没して後に兄の北条氏康公が跡を継いだ際に誅殺されたか自害したのだろう。
そして北条家所縁の傳心寺に葬られたのが、末寺の龍珠院開基の北条氏繁公の話とごちゃ混ぜに成り江戸時代以降に誤伝したのだろう。
神保輝廣公も北条一門なのに84貫32文と異常に低い中級武士待遇扱いをされているが、これももしかしたら為昌公の陰謀に加担した懲罰かも知れない。
為昌公の次の玉縄城主と成った北条綱成公は1370貫612文。
神保輝廣公と北条綱成公の所得を比較すれば、明らかに神保輝廣公が冷遇されており何某かの懲罰を受けて減封されている事が読み解ける。
余談だが伝心寺を開いたとか御廟所が有ると誤伝した北条氏繁公の菩提寺は鎌倉市玉縄の玉縄城下の龍寶寺で、氏繁公の母の大頂院様の菩提寺は鎌倉市大船の大長寺(大頂寺)で、子の北条繁廣公も大長寺にて菩提が守られている。
曹洞宗横浜金沢七福神(毘沙門天)平成23年1月3日参拝。
伝心寺さんのお世話になっております。
名前 |
曹洞宗嗣法山伝心寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
045-781-8820 |
住所 |
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関連サイト |
https://yokohama-kanazawakanko.com/spot/institution/tera/tera003/ |
評価 |
4.1 |
今日(2023.01.07)は、横浜金沢シティガイド協会主催の横浜金沢七福神巡りに参加しました。
ココ、伝心寺は、毘沙門天の神さまを祀られています。
1247年鎌倉幕府5代執権、北条時頼が開基と云われています。
毘沙門天は、知恵と武勇、戦勝の神さまと謂れ、左手に知恵の経典の宝塔を携え、右手に悪霊退散宝剣を握り、足で天邪鬼を踏みつけているお姿をしております守護、開運、出世、厄除けに良いとされる神さまなのです。