名前 |
緑橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
かつて善光寺街道の一部だった国道295号線沿いにある史跡ですが…、深志神社およびまつもと市民芸術館の南を流れ、田川へ合流する長沢川に架かる橋でもあります。
明治11年(西暦1878年)までは「袖留橋(そでとめばし)」と呼ばれていました。
松本城管理事務所の公式サイト『国宝 松本城』の「城下町松本を知ろう」によると、現在の『松本ツーリストホテル』および『お茶の堤治』が入るビルの近く、『松本市駅前会館』の西を通る道路の近くまで堀が設けられていて、その堀を南北にまたぐ橋だったといいます。
また、江戸城時代末までは北の女鳥羽川(めとばがわ)にかかる『大手橋(おおてばし)※』までが「本町(ほんまち)」、この橋から南の薄川(すすきがわ)沿いにある『十王堂跡(十林院)』までは「博労町(ばくろうまち)」と呼ばれていて、町人が住む二つの町の境界線でもあったといいます。
その後、明治時代初めに解体された松本城大手門の石材を用いて石橋に架け替えられ、橋の名も『緑橋』となって現在に至っています。
緑橋の前身である袖留橋の由来については、天正10年(1582年)に松本の地を取り戻した小笠原貞慶(おがさわら さだよし)の嫡男で、慶長18年(西暦1613年)から慶長20年/元和(げんわ)元年(1615年)までの松本城主であった小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)の時代にさかのぼります。
慶長20年(西暦1615年)3月より始まった大坂夏の陣で、徳川家に仕える武将であった秀政が大坂へ出陣した時のこと。
城の留守を任された長男の忠脩(ただなが)、次男の忠政(ただまさ)が父の後を追って大坂へ向かう途中、この時十八歳だった忠政の身を案じた乳母が忠政の着ていた服の袖にすがって離そうとしなかったため、忠政は着ていた服の袖をやむなく切り落として大坂へ向かっていきました。
そして、事の舞台となった橋は、いつの頃からか袖留橋と呼ばれるようになったといいます。
現在では、国道295号線の道路幅の影響や、橋の東側から松本電鉄上高地線の線路脇までが暗渠になっていることもあって、年季の入った石造りの欄干がわずかに残る程度。
歩道の段差の影響で欄干も沈んでいるように見えるので、かなり地味な印象があります。
ただ、「みどりばし」という読み方は同じでも、西と東の欄干の南側は漢字、西の欄干の北側は関字仮名交じりで記されていて、城下町松本の面影を残す数少ない場所とも言えそうです。
【府中小笠原氏】第56代天皇 惟仁(これひと)を発祥とし、甲斐国(現在の山梨県)を拠点とした新羅三郎義光こと源義光(みなもと の よしみつ)を起源とする甲斐源氏の一族。
甲斐国小笠原(現在の山梨県南アルプス市小笠原)の住人であった小笠原長清(おがさわら ながきよ)を祖先とする。
信濃国(現在の長野県)の小笠原氏は長清の孫である長忠(ながただ)が信濃国の守護となったのが始まりで、府中小笠原氏は小笠原秀政の長男の子である長次(ながつぐ)、次男で後に忠真(ただざね)となった忠政(ただまさ)、三男の忠知(ただとも)を祖先とする。
家紋は三階菱。
ちなみに、阿波国(現在の徳島県)を拠点に天文18年(西暦1549年)から永禄11年(西暦1568年)まで京の都周辺を支配下に置いた三好氏は、鎌倉時代初め頃に小笠原長清と息子の長経(ながつね)が京の都へ出兵した後に阿波国の守護となったのが始まり。
後に、長経の子である長房(ながふさ)が阿波小笠原氏こと三好氏となり、長房の兄弟である長忠が信濃小笠原氏となったことから、三好氏と府中小笠原氏は共通の祖先を持つ一族にあたる。
※現在の千歳橋(せんさいばし)◆画像は2021年6月28日に撮影したものです。
口コミの本文にある袖留橋の由来については、緑橋に設置されている案内板を参考にしました。
案内板の年号は元和(げんわ)元年になっていましたが、元和に改元したのは大坂夏の陣が終わった後の西暦1615年の9月(旧暦で7月)なので、本文では改元前の慶長20年とし、陣羽織には元々袖が無いので着ていた服(個人の見解として羽織の可能性がある)としています。
また、小笠原忠政は後に忠真(ただざね)となりましたが、本文では改名前の忠政に統一しています。