【三谷の由来と弘法の水の話】三谷町(サンダニマチ)の起源や町名の由来は定かではありませんが、西に木場潟を臨み南北に豊かな緑に囲まれた絶好の環境の地に古くから私達の祖先が住み生活を営んでいたことは疑いありません。
加賀三代藩主前田利常が小松城にいた頃、小幡下野(七千石)小幡右京(千石)堀三郎兵衛(五百石)が邸宅を構えていました。
寛永十九年(一六四二)の盆踊りに、利常の小姓が家臣の小姓二人と喧嘩をして殺害した事件があったほど、賑やかな盆踊りだったのでしょう。
今から約二百年前の天明六年(一七六八)には草高は五三六石、他に山役、板舟櫂役、畳表役等の所得を年貢として納めていました。
率は五割八分(58%)です。
家数六十軒、五十一軒が百姓でその他は小作人等です。
観帰寺門徒三七軒、本光寺門徒二二軒、残り一軒は長円寺門徒で人数は二七五人でした。
明治十年(一八七七)には八三戸、四二一人。
現在、平成一九年(二〇〇七)は世帯数一一四軒、三八五人となっています。
【弘法の水の話(小松の昔話)】三谷の町は昔からどこを掘ってもかなけの強い水しか出んと難儀しておったと。
ある夏の日、身なりの貧しい坊さんが疲れた足を引きずりながら三谷へやって来て一軒の家で『水を一口飲ませて下さらんか』と頼んだ。
あまりのみすぼらしい姿に『ああ、お前さんにやる水はねえ』と追い払ったと、次の家も次の家でも断られ最後に村はずれの貧しい家で頼んだと。
そこの家の婆さんが遠い向うの生水を汲んで来て飲ませたと。
『ありがとう』と言ってもっていた杖を地面に突きさし『ここに井戸を掘るがいい』と言い残して立ち去ったと、言われた所を掘ってみたら美しい水が湧き出たので人々は『ああ、あの坊さんは弘法様やった』とうわさしました。
今も涸れることなくこんこんと湧き出る水を『弘法様の水』と呼んで大切に守っています。
加賀地方史研究会 現地看板表記から。
名前 |
弘法大師の霊水 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
足を痛めたお坊さんが、通りがかり水を所望、ここに井戸を掘りなさいと言い残し去って行かれたそうです。
白山の伏流水が沸いています。