どなたか判りませんでした。
土肥実平は、土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を本拠としていた武将です。
源頼朝公の挙兵には、弟の土屋宗遠をはじめとする中村一族を率いて参陣しました。
また、石橋山の戦いで大敗した源頼朝公をなんとか逃して、さらには真鶴から安房へ渡らせる手引きをしました。
その後も、平家討伐や奥州征伐に参陣するなど大きな功績を残していたスゴイ方です。
銅像にもありますが、この土肥の地を源頼朝公を共に出陣したのが70歳過ぎ、また、出陣した11年後に安芸国沼田荘(広島県三原市)で亡くなりました。
分骨された供養塔が近くの「城願寺」に大事に残されています。
地元の方のお話しでは、背中を湯河原駅に向けているのは、北条の里からやってきた源頼朝公や北条時政や義時を夫婦で迎えるため、伊豆の国に向かって立つ姿だからだそうです。
土肥實平夫妻の像が立ってます。
源頼朝を支え、鎌倉幕府の立役者となった土肥實平公を顕彰する像です。
この界隈が、館跡とのことでした。
湯河原駅の駅前に土肥実平公とその妻の像が建っていました。
このあたりから城願寺まで土肥氏の館があったとのことです。
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湯河原って感じ(ФωФ)
土肥実平は源頼朝と共に石橋山の合戦堀口の合戦(湯河原鍛冶屋瑞応寺付近)に参戦、敗退しとどの岩屋に5日間、身を隠す此の時に食糧を運んだのが実平の女房と云われている。
(1人の僧侶を供につれて)夫の死後に「土肥の後家尼」として頼朝と対面している!名前は 不詳性格は たぶん気丈な人ですね賢明才女駅前にある銅像は昭和55年に建立駅前ロ―タリ―改修に伴い移動桜の木は電飾を着けた翌年に花が咲かず😰今は🌸咲く湯河原には鎌倉幕府開運街道があります。
小春日和、あるいは紅葉の時期の散策をおすすめします。
駅改札からロータリーへ出ますと、そのお姿は背後から望むこととなり、どなたか判りませんでした。
眼下の相模湾を遠望なさっておられるのでしょうか…ロータリー周辺はとても景観よく整備され、木々も青々と繁り『相模の小京都』を謳うだけの佳き雰囲気の空間です。
土肥 実平(どひ さねひら / どい - )は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武天皇の流れをくむ相模平氏の平良文の流れをくむ中村宗平の次男。
🌟中村越前守信義🌟なかむら・えちぜんのかみ・のぶよし(近藤讃岐守国平の子孫で土佐中村家当主)(藤原北家の中村家と関係あり)土佐の豪族の中村家の事🌟相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。
小早川秀秋の遠い祖先で同じ源頼朝の重臣の大江広元👈大江家の血をひく毛利元就の一族がその名籍を400年後継ぐ🌟土釜家(切山家)初代は、上記の土肥実平(相模平氏)の娘と平清盛(伊勢平氏)の孫の間に生まれた血が過度に濃い一族同士土釜の親戚👇伊勢平氏の一派で伊予平氏🌟平家5武将・田辺太郎 (平清国)・真鍋次郎 (平清房)平清盛八男を始祖とする家系・参鍋三郎 (平清行)・間部藤九郎(平清重)・伊藤清左衛門国久。
皆さん同じ構図になってしまいますね・・・
駅の改装にともない、場所が変わりました。
名前 |
土肥實平公並婦人像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
土肥次郎実平像が駅前にありました。