住宅街の中にひっそりと鎮座しています。
宇治川の北岸側にある小さな神社です。
社と小さな祠だけの細長い神社ですが、ちゃんと立派な説明の看板もあります。
特にわざわざここを目指して見に行く必要はないですが、宇治散策の流れで是非お参りしてはいかがでしょうか?
宇治川の路地裏にあります。
京都フリーwifiも何とか入りました。
観光客いません。
宇治川沿い路地裏散策もお薦めです。
対岸に藤原氏の栄華の象徴ともいうべき平等院がある。
こちらは平将門の乱鎮圧に赴くも、平貞守・藤原秀郷らの軍に先を越され、恩賞の対象から外され、憤死した藤原忠文の社。
藤原氏と言えども、誰もが権力の果実にたどり着けたわけではなかった。
(17/10/04)主祭神 藤原忠文平将門を追討するため右衛門督・征東大将軍に任じられる。
藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられる。
大納言・藤原実頼の子孫に祟ったと噂され悪霊民部卿とも呼ばれる。
椿が咲いていた☺
こんな小さな御社で怨みは晴れたのかな。
(17/10/04)主祭神 藤原忠文平将門を追討するため右衛門督・征東大将軍に任じられる。
藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられる。
大納言・藤原実頼の子孫に祟ったと噂され悪霊民部卿とも呼ばれる。
藤原忠文の怨霊を鎮魂する。
ちなみに、日本三大怨霊とされているのが、崇徳上皇・平将門・菅原道真。
藤原 忠文(ふじわらのただぶみ、貞観15年(873年) - 天暦元年6月26日(947年7月16日))は、平安時代前期から中期にかけての貴族。
藤原式家、参議・藤原枝良の三男。
官位は正四位下・参議、贈正三位・中納言。
宇治民部卿、悪霊民部卿とも呼ばれる。
忠文は、940年(天慶3年)、平将門の乱を鎮圧するため、征東大将軍として東国へ下った。
しかし、将門は、忠文が到着する前に藤原秀郷・平貞盛に討たれてしまったことから、大納言・藤原実頼は忠文に恩賞を与えなかった。
忠文は、そのことを深く恨み、947年(天暦元年)6月26日、忠文が没すると、実頼の娘述子と長男敦敏が相次いで亡くなった。
これが忠文の怨霊の祟りとされ、それを鎮魂するために建てられたとのこと。
ご祭神 / 藤原忠文藤原忠文は、平将門の乱に貢献した人なんだけど、人の妬みにあって出世できなかったことを恨んで、死後に子孫に祟ったた。
その怨霊を鎮めるための神社です。
またふりじんじゃ、と読みます。
マタフリ神社。
68歳の高齢を押して平将門の乱を鎮圧に向かったものの到着前に将門が討たれたため, 恩賞対象から外された征東大将軍・藤原忠文の怨霊を鎮魂する祠とされている。
(尚, 征東大将軍と征夷大将軍とは微妙に違うものの様ですね)(ちなみに東征の翌年, 藤原純友 追討の征西大将軍にも任命されたという。
...そこまでしたら祟って普通やろ!)
名前 |
末多武利神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.4 |
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住宅街の中にひっそりと鎮座しています。
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