最近の研究では推測されています。
2023.11.05天武天皇と奥さんである持統天皇の陵墓。
壬申の乱を勝ち抜いた二人は同士で、夫婦の仲の良さを感じとれる。
車が5台程停めれる駐車場があります、二輪は空いている隅っこに停めて下さい。
明日香村の街道沿いにひっそりと佇んでいます、アピール不足なのかわが国の歴史上とても稀有な墳墓の割には陽のあたる感じではないですね、違う目的地を目指していたのですが呼ばれるようにここに来ました。
階段を登ると夫婦であり天皇でもある二人の墳墓が神々しく佇んでいます。
ここもなかなかのパワーがあります。
飛鳥駅から自転車で5分くらいです。
道沿いに10台くらいの駐車場があります。
そこから少し階段を上ると鳥居の奥が古墳です。
こんもりとした古墳の周りを5分程度で一周できるのでお勧めします。
我が国の歴史上、有名な両天皇の御陵です。
よく整備され、眺めもいいです。
参道階段脇には、果物も植えられ、近隣の方の畑のようです。
駐車場もあります。
是非お詣り下さい。
ありがっ様です。
駐車場(無料)は県道209号線沿いの天皇陵の正面にあります。
5~6台ほど止められそうです。
参拝所の左の道から歩いて200メートルほどで鬼の俎、鬼の雪隠にも行けます。
天武天皇は壬申の乱の時、伊勢神宮を遥拝し伊勢神宮のご加護で勝利できた。
この事で伊勢神宮が最高神を祀る神社とされた。
と言われているそうです。
天武天皇と持統天皇。
夫婦のお墓(古墳)ということ。
階段を登ると現れる神々しい景色と空気。
何も無いけど、それがまた、情緒かな。
ワンコも一緒で幸せな気分になれる。
階段の登口に小さい駐車場があるけど、正式な駐車場なのかは不明。
天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ/後の天武天皇)とその妃、鸕野讚良(うののさらら/後の持統天皇)のお墓ですね。
鸕野讚良は大友皇子(おおとものおうじ)と共に天智天皇の子供で兄弟であったと認識していますが、我が子の草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたかったのか、壬申の乱では夫の大海人皇子が兄妹の大友皇子を伐つ事に反対しなかったよう…天智と天武以外にも血縁争いがあったのかと思いながら見学しました。
知名度や偉業を残した割には現地の案内がさびしく、車では通り過ぎてしまう感じです。
外回りを一周でき、背中の涼しい空間にキジ?がいたりしました。
静かで、見渡せるよい場所です。
何もないところです。
でも、なんだかここに立つと、とても、人の心を感じます。
今も昔も、ヒトはあまり変わってないのかもしれません。
そんな妄想ができて、ありがたいところです。
人のいない、暑い夏か、寒い冬に来るのがオススメです。
前から行きたいと思っていた場所なのでとっても良かったです。
【Tomb of the old emperor】Tenmu and Jitou天武天皇、持統天皇のお墓何もないですが高いところからの景色は素晴らしいです。
夫婦で天皇陛下を歴任された、天武天皇と持統天皇のお墓です。
お亡くなりになってからも夫婦仲良く一緒にいられて、いいなぁと感じる陵です。
なんだかほっとできる場所です♪南側に、車が5台くらい停められる、小さな駐車場があります。
被葬者:第40代・天武天皇/第41代・持統天皇被葬者の実在性もあり、当地が天武・持統天皇陵である事が信頼できる数少ない陵です。
天武天皇と持統天皇は夫婦の間柄で、仲睦まじく葬られている印象を受けました。
拝:2020/07/13
2019.12.13訪問天武天皇と持統女帝の合葬陵です。
律令国家の形成という壮大な夢を夫婦で成し遂げ、今は同じ陵に眠っています。
文暦2(1235)年に盗掘にあったと記す『阿不幾乃山陵記』によると、全長約7.5mの横口式石槨の中には、金銅製の棺台の上に置かれた漆塗り木棺と、金銅製の外容器に銀製の骨蔵器があったといわれ、前者が天武天皇の棺、後者が持統天皇の火葬骨を納めたものと考えらます。
天武天皇と持統天皇は亡くなってからも共に眠っており、夫婦仲が良かったでしょう。
天武天皇と持統天皇の夫婦が一緒に眠る陵。
仲が良かったようですね‼️
天武天皇・持統天皇の合葬陵。
当時最も格式の高い八角形の陵墓で、夫婦で祀られています。
宮内庁指定と、祀られている天皇が一致する数少ない古墳でもあります。
それが判明したのが盗掘とは皮肉なものです。
1235年の盗掘に関する記録によると、石室内には二人が祀られており、一つは漆塗り木棺、もう一つは金銅製骨蔵器に火葬骨があったとのこと。
天武天皇がそれまでの歴代天皇のように道教(又は儒教)に従って木棺に入れられたのに対し、妻の持統天皇は仏教思想で火葬を希望した最初の天皇であるという、歴史の事実と一致しているのです。
これ以降火葬が普及して、古墳が縮小又は不要となっていきます。
それだからでしょうか。
天智天皇の没後、壬申の乱に勝利して律令政治の基礎を築いた天武天皇、そして妻として、天皇として律令国家の確立に尽力し、藤原京を築いた持統天皇という偉大な二人が祀られているにしては小さすぎる印象を受けます(東西58m)。
しかしながら、飛鳥駅から明日香村中心に向かう途中にあり、高松塚古墳にも近いという地の利にあり、藤原京跡を北に臨む場所でも あります。
是非歴史のロマンを感じて下さい。
2019.4.20てんむ・じとうてんのうりょう(ひのくまのおおうちのみささぎ) 東西約58メートル、南北径45メートル右手から軽く一周散歩してみた。
裏側の森林の中に入るとものすごく良い風を受けました。
小高い丘の上にあり、長い石段を登った先にあるこんもりとした林が天武・持統天皇陵です。
区域内はきれいに掃き清められ、自然と背筋が伸びるようなキリッとした雰囲気をまとう神聖な場所です。
墳丘に茂る木々や竹やぶの周囲には、ぐるっと1周回れる細道がめぐっていますが、そこから裏にあたる細道を亀石方面に降りて行くと、すずなりの柿の木やちょっと変わった柑橘の実のなる畑などがあります。
人々の暮らしのすぐ隣に、歴史上の重要な史跡が派手に演出されすぎることもなく、飛鳥の地のそこら中にあるというのがすごいところだと思います。
天武・持統天皇陵は八角形なのだけど斉明天皇の頃から八角形の陵墓を採用したと思われる?。
皇極天皇の前の舒明天皇は上円下方墳とされているが八角下方の説もある。
では、天智天皇陵はどうだったのか?宮内庁は上円下方墳と認識しているのだけど、どうもこれが間違いでやはり八角形だったらしい。
これが近世天皇家の陵墓に影響してなければ良いのだけど・・・・・天皇陵の石室内部は現実的には分からないはずだけど、幸か不幸か盗掘記録によって石室内部の様子が解った貴重な御陵でもある。
電動自転車での散策を前提にしています.亀右から高松塚古墳に向かう下り坂の右手に, 見上げる位置にある. 新緑に包まれ, 白い鳥居が美しいコントラスト。
野口王墓は一見すると小山のよう。
築山でこれだけの規模の墳墓だと考えると驚きです。
2017.07.10. (月) 15:15 初礼拝 (奈良斑鳩人)当日は キトラ古墳や 石舞台なども訪問しコチらにも立ち寄りましたコチらの御陵は駐車場が有り助かりますそしてココには 天武天皇と持統天皇のお墓があり 祀られています天武天皇は 第40代の天皇で 673年~686年まで在位し 先の天皇の弘文天皇(大友皇子)を 壬申の乱で倒し 在位に就いた天皇で律令制度の基礎を築いたトノ事で 他にも宗教に力を入れ 神道を整備し 仏教を保護する国家仏教を 推進した天皇トノ事ですまたアニメなどで有名になった 持統天皇は先の天武天皇の嫁さんで有り 意志をも継ぎ行政を頑張った次期天皇ですと言う事で第41代天皇になり 686年に在位697年に崩御され 日本で初めて火葬された天皇としても知られていますなお 古墳は円墳で 南北径が約45m 高さ9mと説明板に有り 駐車場からは 真っ直ぐに伸びた緩やかな坂を 上り切ったトコロに拝礼所が有りますソコからは 飛鳥の長閑な田園の広がりが望め 長い年月を御夫婦で 仲良く眺められておられるのでしょう ネェ!キット❗
天武天皇が最初に天皇の称号を用いたと、最近の研究では推測されています。
古事記を企画し神の子孫を名乗る。
現人神を自称し、その皇統は現在に至る。
また、万葉集にも『日の御子は明日香の清御原の宮にあって神として治められ、日本の国は代々天皇が治める国として...』とある。
その御稜威は『大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも』と歌われた。
持統天皇は天武天皇の跡を継ぎ、後に天照大神のモデルになった。
残念なことに陵墓を盗掘されています。
その折に陵墓内部を検分されて、天武持統両天皇の御陵墓と断定。
海人(おおあま)と讚良(さらら)と呼んだ方が、親しみがあるかもしれません。
讚良の父、そして大海人の兄である中大兄の死後に起きた権力争いである壬辰の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇として初めて火葬された、持統天皇が合葬されている御陵です。
この2人が合葬されている意味を思うとおもしろい。
そして、持統天皇が天武天皇の意を受けて築いた藤原京の中心から真南にある、と思うと感動的でもあります。
また、この天武天皇時代に初めて天皇、という呼称が、そして持統天皇の時代に日本、という呼称が初めて使われた事を思うと、まさに、日本の原型が見え始めた大切な時期を夫婦で築いたと考えるとロマンを感じる。
東西58mの八角墳、築造時期は687年(持統天皇元年)と推定。
宮内庁により天武天皇・持統天皇の陵に治定されている。
盗掘にあって散々な目にあったらしい。
お気の毒に。
672年、古代史最大の戦闘であった壬申の乱を迅速な作戦行動で征した天武天皇は、飛鳥浄御原令を発令、すべての民とすべての土地は公(天皇)のものであり、国司などすべての役職は天皇が任命することとしました。
国是、公地公民の開始です。
強大な中央集権・法治国家の誕生です。
飛鳥浄御原令はその後の大宝・養老律令へと発展して行きます。
九州には太宰府が設置され、大陸からの防衛も固められます。
天武天皇の業績は非常に大きなものでした。
持統天皇もまた稀に見る聡明な皇后であり天皇でもありました。
夫婦の天皇陵は 珍しいですね。
何かパワーを感じました。
日本の歴史に深く関わりのある御陵を前にするとその静寂さに心が張り詰めるそんな気持ちになります。
ある碩学者が云いました→「考古学的には天皇陵と呼ばれている旧い墳墓、どれ一つとして”中の人”を確定(二例除き)できるものは無い! 」てなことなんですが…。その例外中の一つが此処(飛鳥、野口王墓墳)で、もう一つが意外や意外、天智天皇陵(山科、御廟野古墳)らしい。…何でェなの? 秘かにXXしたのかしら?「天武⇔持統」の仲良し陵墓。綺麗に手入れされている八角墳。このお二人のイメージは稀代の”マキャベリスト夫婦”て感じかなぁ。死しても我が同志! イェ~イ👍🏻✨日本古代史は、この二代を境に良くも悪くも、グキッ!と曲った気がするなぁ。革命と改革。その言挙げの歌。「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天香具山」持統天皇 御製一方「斉明⇔天智」が”古代のママコン系母子♡”←危険なかほり💭がするぞっw…天智陵墓だけは、何故か飛鳥には無い。アリャリャ~の”飛鳥出禁扱い”か。この事の意味は、持統さんは知っている…不都合な真実が?! 斉明崩御 殯舟にて、母を偲びて中大兄皇子詠む。「君が目の 恋♡ほしきからに 泊てて居て 斯くや恋♡ひむも 君が目を欲り」何たるマザコン男よ!w「この楽しい一家? 訂正、やんごとなき方々は、親子?兄妹?!近親婚!!のヤリ過ぎ→”こゆい血と、権力の一極集中”させ続けた結果→大戦争(白村江・壬申の乱)を引き起す根本となる。しかも、歴史に何とも困った”特異点”も生まれ→記紀編纂の必然性も出来→お陰様で現代人の我々も、謎の古代史をチラ見るコトが出来る!」のだ。…コレでいいの、かな。何か間違ってるの、かな?
名前 |
天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵(野口王墓古墳) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
天武天皇と持統天皇合葬檜前大内陵野口王墓古墳宮内庁の陵墓治定と考古学的にも被葬者に疑いがない大変珍しい古墳です。