大内宿へ行った際帰りに立ち寄りました。
会津戊辰戦争の悲劇を産んだ新政府軍がアームストロング砲を鶴ケ城に向かって発射した小田山の麓にあります。
新政府軍の鶴ケ城下侵攻に際し、足手纏いになることを避けて、なよたけの句に代表される辞世を残し、悲劇の集団自決をはかられた会津藩家老西郷頼母公御一族21名と戊辰戦争で亡くなられた多くの会津藩士が眠られています。
お隣には柴四郎公、柴五郎公菩提寺の恵倫寺があります。
小田山新政府軍砲陣跡も併せて、是非、心静かに戊辰の歴史回顧の旅に訪れて下さい。
会津の戊辰戦役で家老、西郷頼母の家族21名が、足手まといになる事を避け自刃しました。
そのお墓となよ竹の碑があります。
奥には、野ざらしにされた会津藩士一千名以上の埋葬に尽力した、伴百悦の墓もあります。
西郷頼母の妻女の辞世の句母 律子(58歳)「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」妻 千重子(34歳)「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」妹 眉寿子(26歳)「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」妹 由布子(23歳)「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」長女 細布子(16歳) 下の句次女 瀑布子(13歳) 上の句「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
西郷頼母の妻女の辞世の句母 律子(58歳)「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」妻 千重子(34歳)「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」妹 眉寿子(26歳)「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」妹 由布子(23歳)「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」長女 細布子(16歳) 下の句次女 瀑布子(13歳) 上の句「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
西郷 頼母とその家系の21人のお墓があるお寺頼母の嫁、母、娘達は足手まといにならないために自宅で自決長らく放置されていた遺体はここに埋葬された一人生き残ってしまった西郷 頼母は全国を放浪した末に70歳になって会津に帰り嫁の隣の墓に入った。
名前 |
善龍寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
戊辰戦争で亡くなった女性が祀られる。