今は何もないが、ここには何かがあった。
2023.11.25 3つの違う時期の宮殿の跡が同じ場所で発掘されたとあって、古代浪漫なファン達が現地説明会に大勢。
日本書紀に記載のある火事の跡らしきものまで見つかったよう。
いつ来ても気持ちの良いところ。
だけど、なぜ飛鳥時代にここに何度も宮が造営されたのでしょうか。
遥かな古の出来事を感じることのできる遺跡です、それにしても低い山に囲まれた狭い地域だったのですね、何もないのがGOOD!
歴史探訪ハイキングには好適。
ただし 暑い時期のワンコ連れには注意!!人間は風光明媚に歩けると思っていても 道はアスファルトで整備されていて ワンコには地獄?すぐバテてしまいました。
いわゆる大化の改新の舞台となった場所です。
宮殿の柱形や井戸跡が見られるようにしてあります。
しかし実物は、この地下数十cmにあることは言うまでもありません。
ここに板葺き屋根の宮殿群が立ち並んでいたことを想像してみましょう。
明日香を満喫するには、すこしの古代史の知識と、たくさんの想像力が必要です。
推古天皇から持統天皇までの約百年間、歴代天皇がこの飛鳥の地に宮を造営されています。
今は井戸などが復元されています。
近くには飛鳥京跡苑池遺跡があります。
ここは車で行くことも出ますが、見つけにくいです。
また、道も狭いので小回りのきくレンタサイクルをお勧めします。
グーグルマップのクチコミにより、大化の改新のスタートとなる乙巳の変があった所と知り訪れました。
基石しか無いのですが大化の改新関連を検索して予備知識入れて見ると素晴らしいw 場所は分かりにくいのでスマホのナビで行きました。
この石敷の遺跡を眺めて感動できる人は素晴らしい🎵しっかり時系列に思い起こせる人は本当の歴史人だ🙌
説明板みたいなものがなかったので、通りすぎるところでした!笑。
以前来たときよりも板蓋宮跡は、雑草の茂りがすごく、こんなところにもコロナの影響があることを感じました。
人間には、あまりうれしくない状況ですが、野鳥が隠れやすいのか沢山いて野鳥好きの私は堪能できまして。
360度パノラマ(何か表現力昭和やなぁ😓)うっすらとその昔を感じられる所です❗️大和三山に甘樫の丘、金剛山の新緑がきれいに見渡せる所が当時の中心だったのは納得出来る‼️
監理をすれば、最高ですねぇ。
田んぼに囲まれたのどかな場所にあります。
表示がないと通りすぎそうなくらい。
誰もか知ってる大化の改新があったところ。
思ったよりも平凡な感じです。
歴史を感じることは出来ますので、ちかくの古墳なども巡りながら行かれると良いと思いました。
飛鳥の怒濤の時代が今では感じられませんが、大和の山々に囲まれ、飛鳥時代へ思いを馳せ、ゆっくり時間が流れるようです。
思わず飛鳥時代にいるようなオーラがあたり一体に漂う。
いにしえに想いをはせつつ散歩する。
最高の贅沢ですな。
飛鳥宮跡、わかりにくいので、地元の方に聞くと良いかと思います。
飛鳥京跡(あすかきょうあと)は、奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の遺跡である。
飛鳥古京跡(あすかこきょうあと)とも称する。
飛鳥京、すなわち都市としての飛鳥における遺跡群の総称であり、大王および天皇の歴代の宮や官衙、豪族の邸宅や寺院など大和朝廷の支配拠点となる建造物、および広場、道路など都市関連遺跡の総体である。
飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。
具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。
遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀半ばに第35代・皇極天皇が営んだ皇居と伝えられています。
名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板を葺いていたことに由来するといわれています。
当時の屋根の殆どは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったそうです。
現在は石床のみが残っています。
当時の板蓋宮はどう栄えたのか興味が尽きません。
訪:2020/07/19
令和元年5月16日、夕刻。
寝そべってごろごろしながら、時と光のうつろいを楽しみました。
周辺を含めてモノ的には何もないに等しい。
だがそれがいい。
歴史上の人物たちも見たであろう山の端の影、黄昏の空の色、色、色。
先客さんのゲルマン系のご夫妻(かな?)が、ワンカップ片手に腰をおろして日没まで静かに語らいあっていました。
斉明天皇に思いを馳せつつよいひとときを過ごせました♪----グーグルマップのいたずら(?)で、今治市朝倉の斉明天皇供養塔に出会って以来、ずっと明日香の地に行きたかったから、感慨無量でした☆
今は何もないが、ここには何かがあった。
今後の調査が進み、新しい情報が出てくると面白い。
周りは田んぼで、車で行くときは注意。
駐車場がないうえ、路駐に不向きな狭い道路ばかり。
歩くのが良い。
乙巳の変(大化の改新)の現場です。
ここから現代に続く日本という国家の在り方が決まったのかと思うと、感慨深いものが………、……ない?石床と柱の跡(進入OK)があるだけで、まわりは農地が広がってるという、それはそれはのどかな風景でした。
日本史のターニングポイントだと言うのに…(・・;)でも、だからと言って更に観光開発してほしいとも思いません。
こののどかな風景を破壊されるのも忍びなく、今のままサイクリングコースとして楽しめるだけで十分です(^-^) あるいは、この田園風景のギャップを栄枯盛衰の果ての姿だと考えると、これはこれで時代の流れに思いを馳せる事もできるかも。
飛鳥宮跡の跡です。
ここに飛鳥宮があり、このやや北西方向に苑池があります。
飛鳥を廻る時は立ち寄るのもいいですね。
この辺りが飛鳥の中心部だったように思いますが、人影はまばらでとても静かでした。
皇極天皇は重祚して斉明天皇となっていますが、その時も板蓋宮で即位しています。
印象的な石敷井戸は飛鳥浄御原宮期の復元遺構ということです。
飛鳥時代好きな方々には、最高の処です。
綺麗に整備されています。
ただ当時をしのべるものは礎石しかありません。
車椅子の方も車道のすぐ横ですから比較的楽に見学できます。
中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂のクーデター「乙巳の変」の現場です。
三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢の使者が来日したので儀式を行うということで、蘇我入鹿が誘い出され、斬首されました。
蘇我氏から藤原氏の時代に変わります。
古代、600年前後の飛鳥時代の板葺宮跡より甘樫の丘を望めば、645年日本史で習った大化の改新(乙巳の変)となった、蘇我入鹿の首が飛んだとされる、歴史的なその場所にいる事が、文字では書けない不思議さを感じます。
当時の様子はこの地より車で10分位で行ける、中大兄皇子と中臣鎌足が政変の相談場所とした談山神社の絵巻物に見る事が出来ました、明日香村には聖徳太子誕生の橘寺や石舞台古墳、高松塚古墳、歴代天皇陵、飛鳥寺、他亀石に代表される石像物等々、明日香村の丘や田畑を掘ればこれからもビックリする様な遺跡が現れるかも。
明日香村とは明日も又、古代の香る風が吹く風土なのかな。
日本史で最も有名な政変と言っても過言ではない乙巳の変が起きた場所です。
今や周囲は田んぼとなり往時を偲ばせるものも何もありません。
ここでいろんなドラマがあったと思うと、胸が熱くなります^ ^ただ、板蓋宮跡と浄御原宮は同じ場所だったようで…。
素晴らしい所です(^o^)/💕
車で行くと…Uターン路?に駐車スペースがある。
”乙巳の変”があった場所だな。皇極四年六月十二日、板蓋宮大極殿で”三国の調”儀式中、鞍作りの大臣(入鹿)が刺殺された…。皇極天皇の目前で! コレはクーデターと言うべき事件か。折角の新造板蓋宮が穢され、皇極天皇退位する。仕掛けた黒幕は”中大兄皇子と中臣鎌足”の蹴鞠コンビだ。蘇我一門への”蹴落とし”の始まり(二年前の”山背大兄王一家”惨殺の件も関与しているのか?)だった。結果→何故か蘇我蝦夷は自宅で大切な「天皇記、国記」を焼き自死?する。…んな馬鹿なっ! これが蘇我宗家の滅亡となる。それ以後→古人大兄皇子、山田石川麻呂、孝徳天皇、有馬皇子etc…ライバル(邪魔者)に対する”嵌め落とし”が常態化するのだった…飛鳥暗黒時代の幕開け。
田んぼの中にある遺跡で落ち着いて観光ができます。
細い路地を入っていくと伝飛鳥板蓋宮跡のロータリーがあり、車数台は停車できます。
この場所には、四つの宮が重層的に建設された。
有名なのは皇極天皇の時に起こった乙巳の変だろう。
この地で入鹿は斬殺され蘇我本家は滅んでしまった。
今、周囲を見渡せば、当時の激しい権力争いなど知らず、田園風景がただ広がっているだけだ。
名前 |
飛鳥宮跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0742-27-9866 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
舒明天皇の飛鳥岡本宮皇極天皇の飛鳥板蓋宮斉明天皇の後飛鳥岡本宮天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮が同じ場所から発掘されています発掘調査は昭和から現在も続いています発掘調査が終わった一部は埋め戻され地面の上に再現されています。