三十三観音の中でも、一番歩くコ―スです。
最上三十三観音の参拝でお伺いしました。
コロナウィルス感染症の影響で二年間延期されていた霊場御本尊の御開帳(観音堂の観音様)です。
長谷山長光院といい真言宗醍醐派のお寺になり、観音霊場第十二番札所になります。
観音堂の中でお勤めをしました、別称で長谷堂観世音と呼ばれています。
小高い山の中腹に建っている長谷堂観世音は、米沢の上杉景勝軍と山形の最上義光軍が戦った「出羽の関ヶ原」として知られる場所にあます、通称「城山」と呼ばれている長谷堂城の跡地にあります。
創建は慶長三年(1598年)源頼義が奥州討伐の前九年の役(1051年~1062年)で戦いに勝利し、都へ帰る途中に仏のお告げを受けこの地に御堂を建てたと伝えられる。
その時に御本尊として奉納された観音像は、頼義が守護仏として兜の中に納めていた大和長谷寺の観音像であった。
このことがお寺の山号となり、この地の地名の由来ともなっている。
御本尊は行基作と伝えられるわずか一寸八分(約五cm)と小さい十一面観世音菩薩で、高さ一mの木像の胎内に納められいまなお大切に祀られている。
御堂は嘉永元年(1848年)に火災にあって焼失したが御本尊は無事で、この地を厚く信仰していた時の山形城主秋元但馬守が再建し、火災から三年後に御堂を復興した、その時の御堂が今に至っている。
観音堂入り口と、御朱印所の間の橋が災害復旧工事のため通行止めでした!令和3年7月30日までとのこと。
北側から周るしかなく、お参りしたら、ぐるっと回って御朱印をもらうしかないと思います!
長谷堂観音口には鮮やかな朱色の鳥居や信者達の手によって敷かれた石畳がございます。
お堂に貼られている沢山のお札が、人々の信仰の厚さを物語っております。
源頼義が奥州の賊伐するに際し、大和の長谷寺の十一面観世音を守護仏として、自分の兜の中に収めて来た。
賊を討って都に帰るとき、「我れを永く此の地に止めて祀らしめよ」という観音の霊夢があり、頼義はここにお堂を建て、持ってきた仏像を安置したのが始まりという。
名前 |
長谷堂観音 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
9/30(金)今日の三ヶ所目は難所でした。
小高い長谷堂の山、ナビでも場所が分からず苦労しました。
西向駐車場に駐めましたが、もっと近い所があるかもしれません。
御朱印所と本堂が随分離れて、かなり山歩きしました。
しかも暑くて汗だくです。
でも頂上の公園は整備され、彼岸花が咲き揃っており、山形市内を見る景色は素晴らしかったです。
次の札所で、長谷堂に行けたらどこでも大丈夫ですよと言われ自信にもなりました。