萬世大路を巡る旅の休憩。
萬世大路記念碑公園の特徴
萬世大路を身近に感じることができる公園です。
広い駐車場と清潔なトイレが便利な休憩スポットです。
歴史ある記念公園で、先人の苦労を感じることができます。
車中泊のために利用しました。
外灯がオレンジだし、静かなので寝やすかったです。
駐車場は広いスペースがあり、施設にはトイレがあるので、ドライブの休憩場所に便利です。
前田慶次ゆかりの湧き水がありますよ。
萬世大路を身近に感じることができる公園です。
駐車場も広くトイレもあり、子供たちが遊ぶ公園というよりはドライバーの休憩場という感じです。
公園内には萬世大路こと旧栗子隧道のノミの跡をレプリカ再現したものや数多くの記念碑ないしその石碑の建立趣意などを事細かに解説した説明版もあり、たいへん勉強になります。
いまや国道13号についで東北自動車道が開通し、米沢福島間の交通がより快適になりましたが、その元祖となった栗子隧道に訪れてみるのもいいかもしれません。
さらに詳しく知りたい人は、道の駅米沢の一角に建つ「栗子隧道碑記」と題した巨大な石碑をご覧ください。
表と裏の両面にビッシリと漢字が書き連なっていますが、そこから開通までの苦労を読み取ることができます。
写真撮影月 令和2年4月。
トイレ休憩のできる場所。
先人の苦労が忍ばれる歴史ある記念公園です。
萬世大路を巡る旅の途中で休憩で立ち寄りました。
広い駐車場はドライバーたちの格好の昼寝スポット日陰もあるのでこれから暑くなる季節には重宝しそう。
トイレもあるのでここを拠点に周辺散策するのもいいかもしれません。
小さく綺麗な公園です。
栗子峠に関する案内板や展示、記念碑などがあって歴史を知ることができます。
駐車場が広くトイレ完備で峠越えの一休みにもってこいです。
栗子峠、萬世大路の歴史を簡単に説明してくれる。
広い駐車スペースにトイレが整備されているので、ちょっとした休憩にどうぞ。
広い駐車場ときれいなトイレがありますが公園は日当たりが悪くあんまり人はいません。
1874年(明治7年)、福島県信夫郡飯坂村(現福島市飯坂町中心部)第3区区長の立岩一郎により、それまでの米沢街道(板谷街道)の往来の不便さの解消のため、かつて米沢藩により通行が禁止された明神峠超え(中野~二ツ小屋~明神峠~赤浜)の新道開削の陳情が福島県庁に対し行われた。
1875年(明治8年)より県の現地調査が行われ路線案の策定が行われ、また、同年に当時の工務卿、伊藤博文により福島・山形両県に対し福島から山形に至る明神峠超えの電信線架設について便宜を図るようとの通達があり、電信線と道路の予定線の調査が両県により行われた。
なお、現在でもNTTの通信線はこの明神峠超えのルートが取られている。
1876年(明治9年)、山形県の初代県令に就任した三島通庸は、県内では主要産業である農業が盛んに行われていたが、道路の状況は劣悪で、産出される農作物の輸送手段がないため牛馬や荷車の数も著しく少なく、もっぱら人が背負って運搬しているという有様を目の当たりにした。
道路の整備の必要性を痛感した三島は、「県民の暮らしを豊かにするにはまず道路を整備し、経済活動を活発にさせる必要がある」と力説して、内務卿の大久保利通など周囲の反対意見を押し切り隣県との間に多数の大規模な道路建設を推進した。
山形県と福島県を結ぶ従来の幹線路は、上山と桑折を金山峠・小坂峠経由で結ぶ羽州街道であったが、三島はこれを廃し米沢と福島を栗子峠経由で結ぶ刈安新道を新たな羽州街道として計画した。
福島県側は、福島中心部から中野地内を経て、二ツ小屋隧道、高平隧道、大桁隧道を含み、栗子山隧道東口までを工区とし、中野新道とも呼ばれた。
「土木県令」ともよばれた三島がとった手法は強引なもので、事業推進のため山形県令就任のこの年の内に、県内道路計画の告示を出して地元区長に工事金予算14万5千円の負担を求め、そのうちの9万5千円が刈安新道に対するものであった。
萬世大路の三島が担当した刈安新道にかかった総工事費は12万6900円あまりで、そのうちの民費負担は75%、残り25%は官費負担であったが、福島県側の中野新道では民費負担は17%余り、官費負担は国負担が11%、県負担が71%であった。
隧道工事は、仙台鎮台より火薬の払い下げを受けて進められたが、不慣れな工事のため事故が続発した。
発破作業に伴う火傷や骨折など346事例が発生し、うち4事例は死亡事故となった(死者数不詳)。
福島県は、高平隧道東側の円部地内に福島病院仮出張所を開設して、治療を当たらせながら工事を続行させるとともに、1880年には大坂鉄道局に職員を派遣してトンネル支保工の技術を習得させている。
現在の福島市内においては、路線上の土地家屋の強制収用が行われ、陣場町(現在の万世町通りとの交差点)から大笹生(現在の十六沼公園の南側)までの路線、すなわち現在の陣場通り(市道)、福島県道3号福島飯坂線、福島県道312号折戸笹谷線、福島市道笹谷中野線はほぼ一直線に道が伸びていた。
現在の福島市中心部の行政区画名である万世町は、万世大路の起点部分に位置することから名付けられたものである。
刈安新道ともよばれた山形県側の経路上には、新沢橋、烏川橋、大平橋、杭甲橋の4つのコンクリート橋と、苅安隧道、栗子山隧道の2つの隧道を含み、栗子山隧道東口までを工区とした。
中でも県境の栗子峠に掘られた栗子山隧道は、全長がおよそ8町(文献により、864 mから876 mとメートル換算値に幅がある)という明治初期としては考えられないような長大な隧道で、このトンネル掘削のため、三島はアメリカ製のトンネル掘削機を日本で初めて購入した。
計画途中に福島県から、栗子山隧道を約100m延長して線形を改良する提案が出された。
栗子山隧道掘削の費用を全て持つことになっていた山形県は難色を示し、延長による工事費用を福島県で持つならばよいと回答した。
検討を重ねた結果これは廃案となり、当初の予定に従って掘削が行なわれた。
地盤の固さとあいまって難工事となったが、奇跡的にも1名の死者も出さず、日本最長の隧道として完成した。
当時はまだ国内に自動車はなく、道路を通る最大の物といえば馬車であったが、それには充分過ぎるほど大きな道であった。
工事は4年あまりの歳月をかけて完成し、1881年(明治14年)10月3日に明治天皇の行幸を迎えて開通式を挙行した。
天皇は福島県側も含めたこの新道に対し、後に「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名した。
明治天皇巡幸の後、太政官公達により国道3等に指定された。
さらに1885年(明治18年)には、当時の内務省により国道39号に指定され、首都圏と東北地方を結ぶ重要な幹線として利用された。
東北地方を訪れたイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、当時の東北の悪路に閉口したが、萬世大路が工事中の1878年(明治11年)6月に新潟から山形県の米沢に入るなり幅25フィート(約7.5メートル)もある道路を見て「瞬く間に新しい世界に出た」と驚き、道幅は広く、交通量も多く繁栄していたと伝えている。
こちらの記念公園には隧道を作った際のツルハシの跡のレプリカが展示されています。
また駐車場は広く、トイレもあるので休憩ポイントにおすすめ◎
8/18、バッタやトンボがいっぱい。
子供の虫取りには面白い。
走り続けるのもいいけど、立ち寄りながらの、旅もいいですね。
名前 |
萬世大路記念碑公園 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
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直ぐ側の建物にトイレがあります。