こちらもとても雰囲気があります!
住吉玉津島神社(追分の明神) / / / .
県境の神社です。
階段の苔で滑りそう。
参拝しました。
人も少なく静かです。
あまり立寄る人もいません。
駐車場がないので車を止めるさいは注意して下さい。
白河の関跡は峠を下りた集落にありますが、こちらもとても雰囲気があります!駐車場はありませんが、峠の北側は道が広くなっているので、数台なら停めておけます。
駐車場がないです。
白河の関に止めたとしても歩くとなると、結構 歩きます。
樹齢700年の杉はとても迫力がありました。
栃木から進むとちょい道狭い小さくても駐車場あると良いと思います。
杉の木が立派です!
境の明神は交通量が多いけれど、こちらはずっと少ない。
良い雰囲気だけれど、遠いかな。
奥の細道 第11の段「白河(白川)の関」国境の明神。
芭蕉一行は旗宿に宿泊後、わざわざ4km程南下し、ここまで来たようである。
ここは旧奥羽街道(現在の国道294号)より以前の街道であったらしい。
観光として訪れる方も稀有ですが、手前にとっては、源頼義・義家に従軍した遠い先祖がここを通ったことを鑑み、感慨深かったことが記憶に残っています。
芭蕉は、源義経の家来佐藤兄弟を見送った父佐藤元治が宴を開いた故事に従いこの地を訪れたと思っていたが、それは誤解(旗宿でした)で、奥の細道 第12の段「須賀川」で登場する相楽等窮から事前に「白河の関の跡はこの明神のみしか遺っていない」と聞いたからここを訪れたようである。
奥の細道本文では、2カ所を除いて過去の歌を示唆する言葉と弟子の曾良の句で締めくくられている。
過去の歌の示唆は下記が有力とされる。
「いかで都へ」→”みちの国の白川の関越え侍りけるに 便りあらばいかで都へ告げやらむ けふ白河の関は越えぬと” 平兼盛「心をとどむ」→”白河の関屋を月にもるかげは 人の心をとむるなりけり” 西行「秋風を耳に残し」→”みちのくにまかり下りけるに 白川の関にて詠みはべりける 都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白川の関” 能因法師「紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶(なお)あわれ也」→”都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関” 源頼政なお、「紅葉を俤(おもかげ)にして」は”もみぢ葉のみなくれなゐに散りしけば名のみ成りけり白川の関” 左大弁親宗 とする説もある。
「古人冠を正し衣装を改めし事」は藤原清輔の「袋草紙」に拠るもの。
この段では、よそよそしく畏まった感がある。
芭蕉が訪れた当時は、白河の関は役目を終え、3柱の国境の明神を残して跡形もない状態であったようである。
何もないところに句を詠むのは(霞の頃も過ぎてしまったし)芭蕉の掲げる「不易流行」の精神にそぐわないと考えこのような表現になったのかもしれない。
先の須賀川の句も白河の関を詠んだようには感じられない。
歴史好きの人のために<一般向けの詳しい解説は割愛します>余計な事を書けば、梶原景季(景時の子)もここで和歌を詠んでいる。
”秋風に草木の露を払わせて君が越ゆれば関守もなし”名歌であるが、判官(義経)贔屓の芭蕉は梶原景時の子の歌に共感するのは面白くないと思って、この段「白河の関」をこのような素っ気ない構成にしたのかもしれない。
あえてこの和歌を示唆する言葉がこの段に無いことに芭蕉の人間味を感じるのは、誠に勝手な手前の解釈である。
景季の話は栃木県佐野市の「どまんなか田沼」で書いているので、興味のある方は読んでみて下さい。
(冷酷非情といわれる頼朝は信長同様猜疑心が強いようだが、部下に対しての考え方は随分違うようだ。
挙兵当初から味方だった佐々木高綱に名馬「生食」を与えるような事は信長にはなかったと記憶する。
こっちの話は黒羽の「玉藻稲荷」で書いています)危ない、危ない、また間違えて口コミを削除するところだった。
削除をクリックしても確認を求められないので簡単に消えてしまう。
「雲巌寺」の口コミを誤って消した時は気絶しそうになった。
まあ、無駄に文章が長いのと頻繁に推敲している自分が原因だが・・・。
訪れた熱い夏、手前が南に目を向けると逃げ水の彼方に大軍の先頭をつとめる畠山重忠の白旗がたなびいている幻覚がみえた気がした。
名前 |
住吉玉津島神社(追分の明神) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=75150 |
評価 |
3.8 |
白河関の少し南東北と関東を分ける小さな峠にあります歴史古し。