興福寺の仏頭がここから持ってこられた。
広々とした遺跡。
この後、近くにある飛鳥資料館を是非訪れてください。
見所満載です。
特別史跡山田寺跡は蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害649年の後に40年かかり完成、瓦葺きの五重塔や金堂が建つていた飛鳥時代のお寺です。
明治時代初期に廃寺になったそうです。
飛鳥資料館には三軒分の東回廊が復元されています。
天気の良い日には子供さんを連れて遊びに行って見て下さい。
白い藤の華が寂しそうに、咲いていました。
藤棚があり、花キレイでした。
駐車場も広く停めやすいです。
地元の方々が草刈りして、手入れされてましたよ。
歴史的には脇役の蘇我倉山田石川麻呂の発願した寺であり石川麻呂の終焉の地。
最期を思うと切なくもなります。
なおここから出土した連子窓は保存状態もよくすぐ近くの飛鳥資料館に現物が展示されています。
山田寺はかなり荒れていて、小さな観音堂があるだけです。
山田寺跡は広大な芝生広場になっています。
車が10台は停められる駐車場もありますので、家族で遊びに来るのもいいかも。
それにしても山田寺の仏頭は興福寺から取り返せないのでしょうか。
蘇我氏が少し可愛そう。
何もない広場ながら、古の諸事が偲ばれて心が洗われる。
大化改新に関係するお寺です。
今は寺跡となりますが、大きなベンチに横たわり空を見上げると感慨深いものがあります。
飛鳥の東の山地の突端に平削された地に建立された。
南北に伽藍跡が並ぶ。
乙巳の変の功労者、蘇我倉麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が建立したが、謀反の罪により中大兄の派遣した兵士に攻められ、麻呂はこの地で自害する。
遠く雷丘が見え、かつては小墾田宮が望めただろう。
また、目の前の神社丘も寺内の一部であったとすれば甘橿丘も望める。
興福寺の仏頭がここから持ってこられた。
昔を想像しながら今は何も無い広場で弁当を食べるのも良いかも。
気持ち良いロケーションです。
とても広い土地で栄華盛衰を感じさせます。
飛鳥全体に言える事ですが7世紀のこの地域に、これほど成熟して高度な文明ががあった事に驚きを感じます。
高度な文明がであれば血なまぐさいドロドロ権力抗争も必然なのかもしれませんが、石川麻呂も自ら建てた山田寺金堂前の礼拝台で自刃したのでしょうか?石川麻呂がこの地に寺を建立したのは分かるような気がします。
山間を抜けて遠くに金剛山、五重の塔からは甘樫丘を含めて飛鳥の街並みが見渡せたのかもしれません?
この山田寺の存在を知ったのが近くにある飛鳥資料館内に展示されている山田寺東回廊の展示物を見たのがきっかけでした。
発掘調査の結果がよくわかる展示がなされ関心を持ち、いつかは行ってみようと思っていました。
興福寺にある銅造仏頭ももともとはここにあったもの。
この跡地は平城宮跡や藤原京跡と同じように広々とした原っぱという感じのなか、説明文付きの展示物があります。
塔があった跡など説明がありますのでわかりやすいです。
乙巳の変に参加した蘇我倉山田石川麻呂の発願により建設とあります。
その彼が家族と共に自殺したのもこの地ということのようで感慨深いといいますか考えさせられる場所でもあります。
たくさんの宝物がある印象を持ちますが、訪れただけでは物足りなさが残るかもしれません。
背景をより深く学んだあとに再訪したい場所です。
蘇我倉山田麻呂(?~649)が建立した寺です。
(大化の改新は645年)
あまりメンテされてない感じですね。
야마다데라의 창건에 관련된 이야기가 무척 드라마틱하다. 소가노일족이면서 자신의 혈족을 배반한 이야기, 그리고 야마다데라에서의 자결. 그 후 사찰의 완공, 유명한 불두의 원출처. 아스카 자료관에 가면 야마다데라의 발굴조사에 대한 자세한 자료가 있다. 현재는 초석 몇 개와 탑지 등이 남아있을 뿐이지만 상당히 흥미로운 폐사지이다.
明日香村の「川原寺」にも言えることだが、「山田」は名前が軽すぎる。
もう少し重厚な名前だったら、イメージが違ってくるだろう。
・・・と思うぐらい、山田寺の跡地は広大で、さぞかし往時は立派な寺院だったであろう。
広い敷地に、ポツンと碑が立っているだけでした。
先に飛鳥資料館に行ってから訪問されたら良いと思います。
名前 |
山田寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
現在、白い藤棚が見頃です🎵近くの田んぼには、蓮華草が咲いて綺麗です\(^^)/今だけの景色かな?