学ぶものがあると思いました。
高槻城は、歴史の遺構としては見るものが乏しいですが、あの「高山右近」が城主を務めていたお城であり、彼がここにいたことに思いを馳せると、歴史ロマンを感じられる場所です。
高槻城公園内に建ってる。
戦国期の切支丹大名で有名な人物。
高槻城主で一番有名なのもこの人。
■高山右近/1972/西森正昭大阪府高槻市にある銅像。
高槻城公園に建つ高山右近の立位像。
作銘:高山右近作者:西森 正昭 (西森 方昭)制作:昭和47年 (1972) 3月●公園内の北西部にある堀池に城壁を再現したかの様に石垣が組まれいる。
その石垣の台の上にあって池側の東向きに像が配されている。
西森氏の高山右近像は、同じ作品が5基ある。
国内4基、フィリピンのマニラ市に1基が建立されてある。
此方の高槻城公園の右近像が最初の建立。
他の国内では、香川県の小豆島、石川県の志賀町、富山県の高岡古城公園に其れぞれ同作品が建つ。
そばの公園は土日は賑わっています。
憩いの場となっていますね!
高槻城公園内に石垣が復元されている。
高槻城は東西510m、南北630mの南北に長い城で、真っ白で三層の天守がそびえる美しい城と伝えられる。
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、城跡の石垣石は鉄道建設(現在のJR京都線)建設に用いられた。
役目を終えた高槻城は鉄道という明治の産業革命を支えることとなった。
ちょっと庭園みたいな感じで高山右近の銅像が眺められる。
東屋が在って休憩所みたいな感じだけど丸太の椅子が5個だけあります。
高山右近像<たかやまうこんぞう>は、高槻市の城跡公園に建つ、キリシタン大名として有名な高山右近のブロンズ像です。
美術彫刻家・西森方昭氏の作です。
右近はキリスト教の布教に力をいれ、本能寺の変(1582)の後、近江国安土城下にあったセミナリオ(神学校)などを高槻に復元しました。
高山右近は、代表的なキリシタン大名として知られています。
カトリック教会の福者です。
父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリアです。
同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされています。
右近の幼名は彦五郎です。
長じて友祥(ともなが)、長房(ながふさ)と称し、通称が右近です。
また南坊、等伯と号しました。
外国側の史料にもジュスト・ウコン殿とあります。
洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユストとも)です。
号は南坊です。
千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。
慶長19年(1614年)、前田家に引き取られ加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。
ただ、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取りました。
享年63と言われています。
マニラ到着からわずか40日のことでした。
城跡公園の入り口をはいると高山右近像がある。
この公園は子供向けの遊具や高槻市の民俗資料館やゴーカートが無料で乗れたりする。
西森 方昭 作。
同じ像が流刑地のルソン島(フィリピンのパコ・パーク)と、前田利家に命じられて城の縄張りをした高岡城跡(高岡古城公園大手口)にある。
名前 |
高山右近の像 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
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一度信じた宗教を棄てることなく貫いた大名に、学ぶものがあると思いました。