両親と石上神宮から歩いたゴール地点。
両親と石上神宮から歩いたゴール地点。
両親還暦越えてるけど元気です。
私は到着頃にはバテバテ。
川沿いの涼しい風が気持ち良かった。
次は暑くない時期に行きたいですね。
この碑文から山の辺の道が本格化する。
暫く集落を進み木立の間だを行くと小林秀雄の書いた道標が出て来る。
ここから竹林あり、田畑あり、寺社ありの最古の街道をゆく。
夏は涼やかではあるが、ベストは春と秋だろう。
山の辺の道ウオーキングの道中、立ち寄りました。
日本書紀によると、欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあります。
また、推古天皇16年(608年)遣隋使の小野妹子が帰国したのもこの地で、隋からの使者である裴世清(はいせいせい)一行を朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたとあります。
ぼんやりすると見過ごしてしまいそうな、のどかな場所ですが、そんな重要な歴史が込められています。
大阪湾から大和川を遡った船がここまでやってきて仏教を伝えたといいます。
桜並木があってベンチもたくさんある気持ちの良い場所です。
対岸の北東に欽明天皇の宮跡があり、そちらにも仏教公伝の地と称されるモニュメントがあります。
さて、どちらが正しいのでしょう。
是非とも目の前の橋を渡って左へ600メートルほど歩いて欽明天皇磯城島金刺宮跡へも出かけてみてください。
桜の並木道が綺麗でした。
船で大和川を遡って、港のあったこちらで仏教を伝えた場所と言われています。
いまの大和川は浅くて、船でこちらまで遡ってくるのは、当時も大変だったのではないでしょうか。
小野妹子もこちらから隋に向かったということですから、古代の歴史好きな人は是非訪ねたい場所ですね。
当時ここは、大和川を通じた大阪との物流の要地であり、大変栄えたそうです。
中国から初めて、仏像、仏教の経典が伝わったのもこの地。
その後、仏教を取り入れるかで、朝廷内で蘇我氏と物部氏が対立し、仏教否定側の物部氏は滅ぼされます。
歴史に、(もしも)は、ありませんが、物部氏が勝っていたなら、仏教のない日本になっていたかも、なんてことを考えてしまいます。
奈良の有名なハイキングルート、山の辺の道の沿道にあります。
沿道には、神社、古墳、遺跡もあり、おすすめです。
奈良時代の国際港だった面影は全くなし。
現在は船が遡上する川幅がないのだから、港の雰囲気だけでも復元しても良いのでは?
山辺の道の入り口にあります。
大和川の土手にベンチや碑があって ゆっくり 古代を思いながら休憩するのに よい場所です。
仏教伝来の地。
河沿いに仏教が伝来したと言われる場所。
ランニングにも最適なコース。
大和川沿いにある石碑で、春になると桜の名所としても有名です。
桜咲く『仏教伝来地』・・仏教伝来地に桜が咲き始めました。
ここ泊瀬川(初瀬川)畔一帯は磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)・磯城嶋金刺宮(しきのみつかきのみや)をはじめ最古の交易の市です。
海柘榴市(桜井市金屋)などの史跡を残し「しきしまの大和」とよばれる古代大和朝廷の中心地とされ、この付近は難波津(なにはづ)から大和川を上ってきた舟の終着地です。
この港は大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
欽明天皇十三年(552年)の冬十月に百済の聖明王(セイメイオウ)は西部姫氏達率怒利斯致契等を遣として釋迦佛金銅像(一光三尊阿弥陀如来・百済大仏)・幡蓋若干(はたきぬがさ)・經論(きやうろん)をたてまつると日本書紀に記されています。
仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸後、直ぐに南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。
古代の異文化の玄関口だったつばいち、ここから日本の形が出来てくる重要な遺跡のひとつ。
2019年4月17日(水)pm13:25に訪れました。
近くに寺があるというのではなく。
石碑が建ち説明が書かれた案内板がなければ、極めてのどかな川縁。
ただここで仏教伝来の出来事があっただろうことを想像するにそれは果てしない時の流れを産み出すことになるわけで、それを考えると真相は別としても物凄いこと。
地元の歴史に詳しいかたが説明してくださいましたから、よくわかりました。
仏教伝来の地大和川にあった川港の脇に仏教伝来の碑がありました。
初瀬川に中国からの高僧が下り立ち日本という国に仏教を伝えました。
そう思うとその頃のことが偲ばれて何とも言えずいとおしく思われます。
川向うに欽明天皇磯城嶋金刺宮がある。
かつてこの周辺は海柘榴市という東西交通の要衝であり、たくさんの天皇が宮を置いた場所。
『日本書紀』によると欽明天皇13年(552)冬、百済の聖明王からの使節・怒悧斯致契(ぬりしちけい)が来朝したことも伝えている。
彼は、磯城邑にあった金刺宮で天皇に拝謁すると、聖明王から託された上表文と釈迦仏の金銅像一躯、数本の幡蓋(はたきぬがさ)および数巻の経典を奉った。
(ただし、帝説や元興寺縁起では、仏教公伝を欽明天皇7年(538)のこととしている)。
我が国ではこの年を仏教公伝の年とし、海柘榴市があった付近を仏教公伝の地として、馬井手橋の近くの川岸に「仏教伝来の地」と大書した石碑が建っている。
仏教伝来の碑があります。
大昔は今より海が内陸に近かったので、今より往き来しやすかったのかな。
初瀬川の畔に建つこの碑のある場所は、、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる日本で最初に開かれた大きな市があり、交易が盛んでした。
「日本書記」によると、欽明天皇時代(552年)、百済(くだら)の使者がこの地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされる。
歴史を感じます。
名前 |
仏教伝来の地 碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
今は船がとても通れない水深と水量ですが、当時は大阪平野の生駒山山麓まで海で、柏原市辺りから王寺町までの大和川(当時水深あり)の亀の瀬を行けば奈良盆地一体は当時広大な奈良湖でした。
その奈良湖南東部、三輪山麓の大和川(初瀬川)河口辺りがこの港だったらしいです。