名前 |
得長寿院跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.1 |
得長寿院は平清盛の父・忠盛が備前守(岡山県東南部)だった時、鳥羽上皇のために建立し、平氏が中央政界で躍進するきっかけとなった建物です。
上皇の御願寺として天承二年(1133)に完成、その本堂の中央に丈六の観音像、左右に等身の正観音像五百体ずつ計千一体の観音像を安置し、各々の胎内には小仏を納めたという。
この堂宇は南北に長くて東面し、三十三間の構造をもっていました。
これをモデルにして造営されたのが、京都東山七条に現存する三十三間堂(蓮華王院)で、構造・規模・景観ともほぼ同じと見られています。
得長寿院は源平争乱後の元暦2年(1185)に大地震で倒壊、失われてしまいました。
平氏は桓武天皇の末裔ですが、皇族を離れ平姓を賜って臣下に下って以来、皇族の血筋でありながら、長い間受領階級の身に甘んじていました。
地下の受領だった忠盛が蓄えた財力にものをいわせ、鳥羽上皇に得長寿院を建立・寄進したことが『平家物語・巻1・殿上の闇討』に書かれています。
上皇は大いに喜び、忠盛を都近くの但馬国(兵庫県)の国司に任命するとともに内裏への昇殿を許しました。
こうして忠盛はさらに巨大な富を手中に収めることになるのです。
忠盛36歳の時です。