江戸初期の儒学者・神道家の山崎闇斎 (ヤマザキア...
下御霊神社 末社 垂加社 / / / .
ちょっと寄っただけでしたが、地元の方が、頻繁に出入りし、地域に溶け込んだ神社だなぁと感じました。
名前 |
下御霊神社 末社 垂加社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.7 |
江戸初期の儒学者・神道家の山崎闇斎 (ヤマザキアンサイ,1619-82) を祀る。
闇斎は朱子学者として一世を風靡する一方, 伊勢神道や吉川神道を学び, 寛文11年 (1671) 吉川惟足より“垂加霊社”の号を授けられた。
古例に従い葭屋ヨシヤ町通の邸*内に祠を建立した**が延宝2(1674)年 下御霊神社内に移し天和年間(1681-84) 故あって猿田彦社に合祀された。
闇斎には後継ぎがいなかったので, 没後は門人の下御霊神社神主 出雲路信直 が遺物を管理しその霊を祀っていた, とのこと。
(※境内北西 “闇斎山崎先生祠堂碑”より)(*現在 “山崎闇斎邸跡” 石標あり. 堀川下立売西入ル上ルの民家前)(**誰もが神であり/神となる(なれる), という思想の下, 生前に自らの手で, 自らの霊を祀ったものということですね)社名の“垂加”は, 神道五部書***の1つ『倭姫命世記』ヤマトヒメノミコトセイキの一節で神託の語とされる,“神垂以祈祷為先 冥加以正直為本”(カミハ タルルニ ネギゴト ヲモッテ サキトナシクラキハ クハフルニ ショウジキ ヲモッテ モトトナセリ)(神垂 カミノシデ* は祈祷を以て先と為し冥加 クラキノマス / ミョウガ** は正直 マスグ/ ショウジキ を以て本と為す)から取られており, “スイカ”, “シデマス” と読むとのこと。
(*神の恵みと解される)(**知らず識らずに被る神仏の加護)(***伊勢神道(度会ワタライ神道)の根本経典で鎌倉期のものと考えられている)(ネット等で上記語句が“冥加以正直 為本” のものと“冥加以正直 以本” のものがありますが 為 が正当. 闇斎自筆稿にて確認済) 🤔2018.1.31, 2019.2.22, 11.30,ーー“闇斎山崎先生祠堂碑” ほぼ全訳(京都市いしぶみdbのものに加筆)庶民に生まれ, 大名や公家を教化し日本の学問を一変し天下の道徳を正道に戻すなどということができる人は滅多にいるものではない。
山崎闇斎先生はそういう希に見る学者である。
先生は豪邁な資質と卓絶した見識で日本神道のつつしみ敬う正直の教えを修め, また聖賢の学(儒学・朱子学の道徳哲学)を講じて 一世を風靡した。
門弟は六千人に及び, 大納言 正親町公通, 会津藩主 保科正之はじめ 皆 弟子の礼を執ったのである。
先生は孔子の“春秋”, 朱熹の“資治通鑑綱目”の含意に深く感ずる所あり, 国体を尊び名分を厳しく明らかに, 講義はキレッキレに切れ 聴く者はピクリともしなかった。
そのノリを最もマスターしたのが弟子の浅見絅斎で 余力も残さぬ激烈な講義ぶり。
その後弟子たちは 先生の説を秘かに磨き 継承した。
朝廷の衰微を嘆き 幕府の専横に憤り常に自ら忠義の者たらんと 根を張り枝を拡げた。
桃園帝時(1747-62)の 竹内式部光格帝時(1780-1817) 唐崎常陸介孝明帝時(1846-67) 梅田雲浜 有馬新七皆 先生の学を講じ 志を継ぎ公卿に説いて 皇復の機運を図り武士や庶民に 勤王の道を熱く語ってテンション高く嘆き 身を挺して事に当り首を失うとも悔いず と腹を決めた結果, 各地の志士 心に感じて奮い立ち 争い京へと走り 力の限りを捧げ皇政復古の業が遂に成ったあぁ これは先生の教えが 上下全てのまごころを深く感じさせたからそう 感じたから!それ以外にないのではないだろうか。
先生は居を京都に定め 幕府諸侯のお抱え儒者とはならず, 一方で伊勢に参拝し 神道を 大中臣精長(オオナカトミノ キヨナガ 河辺精長)と吉川惟足(ヨシカワコレタリ)から学び, 寛文11(1671)年 冬至 垂加霊社の号を授けられた ... (※一部省略. 前述)明治40(1907)年, 先生に正四位が追贈された。
尊王の志に対するものだろう。
出雲路信直の八世の子孫・敬通は 後学者や名士に声をかけ 報告の祭典を催し, また黒谷金戒光明寺の墓所を整備した。
またその経緯を石碑にしたいと考え,谷干城子爵を介して 私(内田)に碑文を依頼された。
先生に長年私淑してきた私である。
碑に名を刻み 門流の末席に加われるなど, もとより願う所である!よって僭越ながら, 先生の学の概要と祠堂(u003d垂加社)の沿革を記し後世に残すものである。
明治42年8月後学従六位 内田周平 謹撰。