隣に、廃校になった、木造校舎が有ります。
2021年5月に再訪問、鎌倉時代の武将、那須与一公を祭っています。
「古代名水 那須与一の渡井戸」へ行くには、ここから歩きで、「稲含神社里宮」を目指せば、途中に井戸が有ります。
平成十六年(2004)三月に廃校となった「甘楽町立秋畑小学校那須分校」。
この辺りは「那須地区」で、県道46号線(富岡神流線)ですら傾斜のある坂道なのに、更に傾斜のきつい道幅は乗用車一台半分位しかない北側の細道に入り込みます。
県道との分岐点の小さな案内板「那須分校入口」「書道館入口」が目印になるかと思います。
傾斜のある細道を登って行くと「書道館」という小さな立て看板があり、薄グリーンの建物が目に入ります。
薄グリーンの建物の奥が那須分校の木造校舎で、薄グリーンの建物は学校の体育館のだったようです。
その体育館の手前に、藪に隠れて「与一八幡神社」があります。
与一八幡神社から、今登ってきた道を隔てて向かい側に「馬頭観音」の社があります。
馬頭観音の社の前の狭い境内には小さいですが朱色の木製の鳥居が立っています。
与一八幡の社の前には鳥居がありません。
両方とも社の周りに大小の庚申塔や石像がいくつかあります。
「与一」は、平家物語の屋島の合戦で平家の船に掲げられた扇を射落としたという弓の名手「那須与一」で、地名も那須ですので関連が考えられます。
甘楽町指定重要無形民俗文化財「梅ノ木平の獅子舞」この獅子舞は、寿永四年(1185)平安時代最末期の源平合戦で源義経軍に加わり、屋島(香川県)の合戦で扇の的を射ぬいて武勇を馳せた那須与一宗高が出陣の際に伝授したものと言われています。
与一は、与一の兄が富岡市野上を領しているため兄を頼って野上に来て、その後、秋畑那須地区に一時期移住していました。
与一が信仰した八幡様は「与一八幡宮」として祀られ、与一が弓を練習した場所が「的場」として残っています。
獅子舞は黒熊流の筆頭と伝えられ、服装も手甲・脚絆・草鞋ばきとして特徴があります。
獅子舞は一人立ち三頭獅子で、舞は十三庭ありましたが、現在では宮まいり・剣の舞・小庭・兎切り・天狗拍子・雌獅子隠しなどが舞われています。
(甘楽町HPより)
この辺りは那須という地名になっており、那須与一が幼少の頃に住んでいたと言われ、弓を練習したという的場という場所や、鍛練のあとに水を飲みに来たという井戸が残されているといいます。
ほとんど伝説上の人物なので真偽はわかりませんが、那須や的場という地名から連想されたお話かも知れません(*^^*)カーナビを頼りに訪ねてみましたが、とうとう見つからず、険しく細い坂道を何度も登り降りして、あきらめました。
あとで調べたら、何度も通り過ぎた分校の脇にあったようです。
それにしても山里の奥へ奥へ…遠かった(^_^;)この秋畑という地名のもとは、焼き畑農業であるともいいますが、そんな感じが確かにします。
急峻な斜面に石垣を積み上げて、僅かな平地とし、そこに家を建て畑を作り…さぞ大変な暮らしであったろうと想像されます。
この実りの少ない地に、豊作の季節である秋と、命をつなぐ畑を地名としたのは、ここに暮らす人々の祈りであったろう…と書かれた史料もあります(;_;)/~~~
名前 |
与一八幡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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隣に、廃校になった、木造校舎が有ります。
別の何かの用途に使われているようですが、何年か前に行った時には、外からだけは 見られました。
こういう校舎はもう、なかなか残っていないので、貴重だと思います。