その愛妻であった匂当内侍(こうとうのないし)のお墓...
お墓、小さい公園に隣接する神社でした。
つつじ咲く 公当内侍の 花見塚 (上毛カルタ)ここから館林市つつじが岡公園のつつじを持って行ったなんて驚きです。
場所に行くには道がそんなに広くない道ですが、その道は昔の江戸から足尾銅山に行く街道でした。
ただ公園として整備されてきれいになりました。
新田義貞の愛妻「勾当内侍(こうとうのないし、生没年不詳)」の墓との伝承がある。
遺愛のつつじは、つつじが岡公園のゆかりにもなっている。
公園として整備されており、つつじの季節には美しい景色が楽しめる。
こんな所に勾当内侍が葬られていたなんて知りませんでした。
大河ドラマ太平記では宮崎ますみさんが演じられていましたけれども、道路の案内板は分かりづらいし、外観も分かりづらい感じです。
つつじも歴史有るものならばもう少し存在感あるようにしてあげて欲しいものです。
新田義貞公の首塚と奥さんのお墓があります。
良い史跡です。
トイレとベンチがあるので歩いて史跡巡ってる人は小休止できます。
御祭神 後醍醐天皇 神武天皇花見塚神社由来隠岐島から京都に還幸せられた第九十六代後醍醐天皇は元弘三年(1332)六月、新田左中将義貞に匂當内侍(従二位少納言経尹三女)を盃に付けて、宿の妻として賜りました。
左中将義貞は大いに喜び、建武元年(1334)匂當内侍を伴い本国である上野国に帰って来ました。
左中将義貞はこの地、上野国勢多郡南田島郷又太郎の旧城跡に、東西百間、南北三百間の中に奥殿を新築し各所より躑躅を取り集め、これを植え、ここを花見塚と稱しました。
建武二年(1336)七月十七日後醍醐天皇の第三皇子征東将軍宗良親王はここ花見塚御別家に御逗留され、美しい四季の草花咲きほこる花見塚を愛でられ一首を詠じられました。
「色におき野辺の千草の中々に たかくちなしといふや山吹」正平元年(1346)八月十六日、宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死し、その勢いが衰えるさまを心配され、御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した花見塚神社を建てられ、南朝の皇運を祈られました。
然し宝暦元年(1751)四月、火災によって焼失して今日に至りました。
このゆかりを以て昭和四十五年(1970)十一月三日、下野入道南順の後裔宮下氏一族相集まって花見塚神社を再建するに至りました。
(社殿の案内書より)花見塚公園江戸時代初期の頃まで、この地には名木のつつじが一面に咲き乱れていました。
建武の中興に功績のあった新田義貞は、後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜りました。
当代一の美人と言われた内侍のために義貞はこの地に新しい館を構え、その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言います。
義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、柊塚とか花見塚と呼ばれていました。
寛永四年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、今の「つつじが岡公園」の古木がそれで、樹齢八百余年を経ているのもあると言います。
公園は世界一のつつじの名所となっています。
その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、わずかに往時を偲ばせていましたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものです。
(入口案内板より)
こちらには、新田義貞公の首塚と、その愛妻であった匂当内侍(こうとうのないし)のお墓があります。
匂当内侍は後醍醐天皇に仕える絶世の美女でしたが、宮中で義貞に見初められ、天皇の許しを得て妻となり、新田郷に新築した館で仲睦まじく暮らしました。
しかし後に義貞は、足利尊氏と争った末に、遠い越前の地で討死し、首は京の都に曝されました。
この首を内侍は侍女に盗みださせ、ひそかに新田郷へ持ち帰り、その後は尼となって義貞の菩提を弔ったといいます。
神社の奥の墓地には、義貞の首塚と内侍のお墓が、いまでも仲睦まじく寄り添うように並んでいます。
また内侍はツツジの花が好きで、各地から様々な種類のツツジを集め、庭に植えて楽しんだそうです。
後に、館林城主であった榊原忠次が内侍遺愛のツツジ数百株を城沼の畔に移植しました。
これがいまでは全国に知られる名所になったつつじが岡公園の始まりだと言われています(*^^*)
サイクリングロードの端にある木陰とトイレもあり休憩に最適です。
名前 |
花見塚神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.5 |
由良深谷線から西に200メート位入り、前には早川が流れている静かな場所です。
まわりに人家はポツンとあるだけで駐車場とトイレ🚻が設置されています。