生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。
打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尓鶏類鴨「うちのぼる 佐保の川原の 青柳(あおやぎ)は今は春べと なりにけるかも」(大伴坂上郎女 巻8ー1433)※ウィキペディアからの引用:大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。
大伴安麻呂と石川内命婦の娘。
大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。
大伴家持の叔母で姑でもある。
『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。
13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。
一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。
この頃、首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年には個人的に歌を奉げている。
その後に藤原麻呂の恋人となるが、麻呂とも早くに死別する。
養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだものの、彼とも33歳頃に死別したと思われる。
その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。
帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。
その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。
しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。
坂上郎女の通称は坂上の里(現・奈良市法蓮町北町)に住んだためという。
大伴坂上郎女の歌碑。
名前 |
大伴坂上郎女の歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.5 |
歌にある佐保の河原の青柳。