高台で木々に囲まれた大きな敷地の寺跡が想像出来る。
名水巡りのついでに周囲を散策していて。
まずはご挨拶。
高宮大社御祖神社たかみやおおもりみおやじんじゃ大阪府寝屋川市高宮2丁目15-1祭神万魂命(よろずたま)天剛風命(あめのこかぜ)の父親半島亡命者の造った神社高宮神社、高宮大社御祖神社とも式内社で一村に二社も式内社があることは他にないと言う(田村利久氏)あるいは葛城 襲津彦が(かずらき の そつひこ)半島での戦闘に勝利しその捕虜をここに住まわしめ捕虜が故郷を思って建てた神社というなお当社の鎮座する北河内は大陸、半島の動乱より避難した亡命知識人多いそれらが自分達の神社、寺院を造るあるいは奈良より少し離れたところに意図的に王朝官人が住まわせたか?なお北河内は現在大阪、京都のベッドタウンとして全面開発、各神社の場所は分かり難い又大阪の方の運転は「イラチ」=いらいらする意味か?流れのスピード早く、地方から行くと慣れるまで注意!
高宮神社と違い社殿と境内を囲む大きな森を持つ。
この森のせいか神域のオーラが漂っている。
高宮神社とは親子関係にあると言うが対照的だ。
【大杜御祖神社】(おおもりみおやじんじゃ) 大阪府寝屋川市この【大杜御祖神社】(おおもりみおやじんじゃ) がある場所は、薬師寺式寺院高宮廃寺の西塔跡です。
高宮廃寺は奈良時代以前に創建され、平安時代に廃寺となりました。
もとは現在地の西北100mの一段高い畑地にありましたが、後に現在地に移りました。
祭神は天万魂命。
200mほど距てて東西に祭られていることになります。
【大杜御祖神社】は「高宮廃寺」の鎮守として鎮座されたが、鎮座の年代は不明で、高宮廃寺建立と同時かあるいはそれ以前といわれています。
廃寺が数度の火災で焼失した後も、神社だけは村の人々によって守り続けられてきました。
「高宮廃寺跡」は、高宮にある古代寺院跡です。
高宮の集落の東側は標高30メートル前後の小高い丘陵になっていて、遺跡はここに鎮座する式内社「大杜御祖神社」(しきないしゃおおもりみおやじんじゃ)の境内を中心に広がっています。
1953年(昭和28年)に大阪府教育委員会によって礎石の残っている神社社殿東側の高まり部分の発掘調査が行われ、 ここが塔跡であることが確認されました。
1979年(昭和54年)に市教育委員会によって、寺域の範囲や伽藍(がらん)の確認調査が行われ、金堂・講堂・回廊の位置が確認されました。
伽藍配置は、神社社殿部分が未調査のため確定できませんが、この部分に塔跡があるとすれば、金堂の前面に東西2塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置に復元されます。
復元される回廊は東西が非対称で西側が大きく広がっています。
住所:大阪府寝屋川市高宮2丁目15−1
【大杜御祖神社】(おおもりみおやじんじゃ) 大阪府寝屋川市この【大杜御祖神社】(おおもりみおやじんじゃ) がある場所は、薬師寺式寺院高宮廃寺の西塔跡です。
高宮廃寺は奈良時代以前に創建され、平安時代に廃寺となりました。
もとは現在地の西北100mの一段高い畑地にありましたが、後に現在地に移りました。
祭神は天万魂命。
200mほど距てて東西に祭られていることになります。
【大杜御祖神社】は「高宮廃寺」の鎮守として鎮座されたが、鎮座の年代は不明で、高宮廃寺建立と同時かあるいはそれ以前といわれています。
廃寺が数度の火災で焼失した後も、神社だけは村の人々によって守り続けられてきました。
「高宮廃寺跡」は、高宮にある古代寺院跡です。
高宮の集落の東側は標高30メートル前後の小高い丘陵になっていて、遺跡はここに鎮座する式内社「大杜御祖神社」(しきないしゃおおもりみおやじんじゃ)の境内を中心に広がっています。
1953年(昭和28年)に大阪府教育委員会によって礎石の残っている神社社殿東側の高まり部分の発掘調査が行われ、 ここが塔跡であることが確認されました。
1979年(昭和54年)に市教育委員会によって、寺域の範囲や伽藍(がらん)の確認調査が行われ、金堂・講堂・回廊の位置が確認されました。
伽藍配置は、神社社殿部分が未調査のため確定できませんが、この部分に塔跡があるとすれば、金堂の前面に東西2塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置に復元されます。
復元される回廊は東西が非対称で西側が大きく広がっています。
住所:大阪府寝屋川市高宮2丁目15−1
名前 |
大杜御祖神社(奥の宮) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
072-822-2158 |
住所 |
|
関連サイト |
http://osakadai3shibu.kilo.jp/jinja/neyagawa/jinja/oomori.html |
評価 |
3.9 |
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高台で木々に囲まれた大きな敷地の寺跡が想像出来る。
全盛期は、海外を意識していたのでは?と思います。