登り口は上行寺の裏に続く急な坂の上。
室町時代の文化人で禅僧の万里集九が書いた❝梅花無尽蔵❞に登場する山。
上行寺東遺跡入口階段の左側の道を進むと登れる。
横浜市とは思えない自然豊かな場所で鎌倉文化を感じられる遊歩道が有り、そして実は❝史跡❞でもあり❝城跡❞でもある。
地域の文献や寺伝を故意にスルーして近代に地主が山林切り開いたと書いて京急による線路側矢倉群破壊を擁護している奴がいるが、麓の上行寺に確認済みで山上の地形は略、昔のまま。
それを証明するのが現在の道と上行寺の墓地矢倉群平場がそのまま舗装された道に接続しているが、この構造も拡幅されたが完全に昔の道だそうだ。
更にそれ等が上行寺の寺伝にある鎌倉末期~室町期の荒尾城である事を物語る城地形に成っている。
戦国時代の旧北条家臣の三浦浄心は旧:久良岐郡金沢(横浜市金沢区)の事を瀟湘八景になぞらえ、この地の景勝を文に残し後に金沢八景とし江戸時代に葛飾北斎が描いた。
【小泉夜雨】【称名晩鐘】【洲崎晴嵐】【瀬戸秋月】【乙艫帰帆】【野島夕照】【平潟落雁】【内川暮雪】・・・以上が現在の金沢八景の地名由来に成った。
この権現山の一帯は鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が開いた六浦山浄願寺と言う大寺院が存在したが、そこに❝徒然草❞の著者兼好法師こと吉田兼好も一時期住んでいた。
景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・題名:入武蔵同日有山曰❝権現堂❞❝即相武両道之界❞古云群盗所聚也今則不然也蓋昔有堂歟駅樹風声入武州山名権現憩無楼旅衣未脱昏鴉尽聊借民爐嘗濁蒭・・・これは金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのだが、もう今は無くて云々と同地を万里集九が訪問した際に一般人と話している様子を詩にした訳だが、「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る。
それを元に近代に地主が山道を再整備し観光地化しただけの事を、勘違いさせる口コミ書く奴は、その時代に全て整備されたと梅花無尽蔵や周辺寺院の伝承を無視し史跡破壊幇助に等しいし上行寺東遺跡の消滅を容認した横浜市の当時の言い分と全く同じで悪でしかない。
この山麓には六浦山上行寺と言う日蓮宗寺院が在り日蓮宗では有名な日蓮上人と富木胤継公(後の日蓮宗大本山:中山法華経寺の初代住職の日常上人)の船中問答の舞台でもあり、仁王像を真言律宗別格本山:金澤山彌勒院稱名寺から譲り受け身延山久遠寺に奉納した日荷上人(荒井平次郎光吉公)が再興した寺院なのだ・・・荒井光吉公は鎌倉幕府執権北条家旧臣で同地は金沢北条氏の所領だった事から、金沢北条家の直臣だっただろう事と稱名寺と上行寺の御縁が推測出来る。
・・・そして荒井光吉公は荒尾城主だったと伝わり恐らく権現山を含めた尾根伝いの山々、権現山~御伊勢山~金沢八景駅前横浜市立大学裏~上行寺東遺跡(浄願寺跡)の全体が地形的にも荒尾城址だったと小生は現地の地形が中世の山城の人工地形そのもので城だろうと推定している。
権現山の山頂付近は木々に囲まれて展望はありませんが、ここから少し南にある送電線の鉄塔のコンクリート台座からは少し展望が望め、東京湾や八景島、夏島の住友重機が見えます。
登り口は上行寺の裏に続く急な坂の上。
山道は割と展望も良く、比較的楽なルートです。
山頂は木も多く、展望は望めません。
尾根道は八景駅の近くまで続き、行き止まりとなります。
途中に小綺麗なベンチなんかもあり、手が入っている模様。
御伊勢山へも尾根伝いに行く事が可能です。
昭和初期、山の所有者(当時)の木村家が湘南電鉄(現京浜急行)の開通に伴い、山林を切り開き「権現山の遊園地」を造った。
遊園地と言っても、遊具がある訳では無く展望台と周遊出来る道と休息所等が造られ、お茶などが振舞われていたそうだ。
また、戦時中には防空砲台が置かれ今でも海軍標柱やコンクリート製の遺構が多数見受けられるが、こちらは半ば埋もれた状態。
樹叢林は現在、峰続きの御伊勢山と共に市の天然記念物に指定されている。
権現山は金沢八景駅側の山裾に明治まで「東照宮(東照大権現)」が鎮座していた事から呼ばれる様になった。
現在、東照宮は近隣の瀬戸神社に合祀されている。
近年まで、駅のホームからも観られた茅葺屋根の建物(現在は取り壊されている)は東照宮の別当寺日輪山円通寺の客殿であったもの。
室町時代の文化人で禅僧の万里集九が書いた❝梅花無尽蔵❞に登場する山。
上行寺東遺跡入口階段の左側の道を進むと登れる。
横浜市とは思えない自然豊かな場所で鎌倉文化を感じられる遊歩道が有り、そして実は❝史跡❞でもあり❝城跡❞でもある。
戦国時代の旧北条家臣の三浦浄心は旧:久良岐郡金沢(横浜市金沢区)の事を瀟湘八景になぞらえ、この地の景勝を文に残し後に金沢八景とし江戸時代に葛飾北斎が描いた。
【小泉夜雨】【称名晩鐘】【洲崎晴嵐】【瀬戸秋月】【乙艫帰帆】【野島夕照】【平潟落雁】【内川暮雪】・・・以上が現在の金沢八景の地名由来に成った。
この権現山の一帯は鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が開いた六浦山浄願寺と言う大寺院が存在したが、そこに❝徒然草❞の著者兼好法師こと吉田兼好も一時期住んでいた。
金沢文庫の学芸員さんの論文によると景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・題名:入武蔵同日有山曰❝権現堂❞ ❝即相武両道之界❞古云群盗所聚也今則不然也蓋昔有堂歟駅樹風声入武州山名権現憩無楼旅衣未脱昏鴉尽聊借民爐嘗濁蒭・・・これは金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのだが、もう今は無くて云々と同地を万里集九が訪問した際に一般人と話している様子を詩にした訳だが、「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る。
この山麓には六浦山上行寺と言う日蓮宗寺院が在り日蓮宗では有名な日蓮上人と富木胤継公(後の日蓮宗大本山:中山法華経寺の初代住職の日常上人)の船中問答の舞台でもあり、仁王像を真言律宗別格本山:金澤山彌勒院稱名寺から譲り受け身延山久遠寺に奉納した日荷上人(荒井平次郎光吉公)が再興した寺院なのだ・・・荒井光吉公は鎌倉幕府執権北条家旧臣で同地は金沢北条氏の所領だった事から、金沢北条家の直臣だっただろう事と稱名寺と上行寺の御縁が推測出来る。
・・・そして荒井光吉公は荒尾城主だったと伝わり恐らく権現山を含めた尾根伝いの山々、権現山~御伊勢山~金沢八景駅前横浜市立大学裏~上行寺東遺跡(浄願寺跡)の全体が地形的にも荒尾城址だったと小生は現地の地形が中世の山城の人工地形そのもので城だろうと推定している。
名前 |
権現山 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://yokohama-kanazawakanko.com/spot/institution/reki/reki007/ |
評価 |
3.4 |
運動には良いが、危険な箇所がある。