三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。
長いです。
自分の言葉でまとめて。
( ´,_ゝ`)プッ
岡崎義實(おかざきよしざね)天永三年(1112)は、三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。
青年時代は三浦郡沼田(現在の浦賀の一域)に住み悪四郎(あくしろう)と呼ばれ勇ましい武将であった。
(この時代の悪は大変強いという意味) 後に大住郡岡崎(平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)に移り、この辺りを領地にし、岡崎の名前をとって岡崎四郎義實(おかざきしろうよしざね)と名乗った。
治承四年(1180)69歳で、源頼朝の「伊豆の国韮山の挙兵」に加わり、「石橋山の戦い」では十倍の以上の相手と戦い、「長男の真田与一義忠を亡くした」が、無事頼朝を守り立派な働きをした。
以来、鎌倉幕府を開いた頼朝にとって、なくてはならない重要な人物の一人として活躍した。
正治二年(1200)6月21日、89歳で鎌倉の由比が浜の自宅で亡くなった。
この墓は、長男義實の乳母吾嬬(うばあづま)を埋葬した場所へ義實を後から葬ったと伝えられている。
(平塚観光協会)--------------------------------① 三浦氏は、為通・為継・義継・義明・義澄・義村の6代に渡って一族を形成した。
② 岡崎義實(おかざきよしざね)は、三浦氏の庶家(しょけ)・岡崎氏の祖。
三浦義明の弟。
三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれた③ 庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。
嫡流に対し庶流の家柄。
主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。
分家、庶流、庶子家ともいう。
④ 治承4年(1180年)8月9日に源義朝の遺児の頼朝が伊豆国で挙兵を決めると嫡男の与一義忠とともに直ちに参じた。
⑤ 石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。
治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。
⑥ 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。
伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。
敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。
⑦ 石橋山の戦いは寡兵の頼朝方が大敗を喫し、義実の嫡男の義忠が討ち死にしている。
『平家物語』や『源平盛衰記』には先陣となった義忠の奮戦ぶりが詳しく描かれており、武勇の若武者佐奈田与一義忠の名は後世に長く残ることになる。
⑧ 関連として平塚市真田の「万種山天徳寺」に佐奈田与一義忠の居城跡があります。
岡崎城を最初に築城した三浦一族、岡崎義実公の御廟所。
この御廟所には現在の皇太子殿下も御参りにいらっしゃってます。
岡崎義実公は前九年後三年の役で活躍した三浦義継公の御子息で、三浦宗家を継いだ三浦義明公の御実弟。
三浦義継公の従弟は鎌倉景正公で、鎌倉景正公は上杉謙信の祖先としても有名。
この岡崎義実公の御廟所から徒歩すぐの場所に在る無量寺が岡崎城址の本丸跡で、無量寺の背後には岡崎城の三連続の曲輪が状態良く残る。
三浦家や鎌倉家の御先祖である平良文(たいらのよしふみ)公と鎌倉景正公を御祭神とした鎌倉の権五郎御霊神社は縁結びの神様としても有名。
神奈川県教育委員会は無文化な史跡破壊を止めて、皇太子殿下を見習って県下の城跡や史跡保護に真剣に取り組んでほしい。
そのモデルと成るのは綾瀬市の早川城山公園を手本にしたら良いだろう。
名前 |
岡崎四郎義實公の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
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岡崎城本丸跡に建つ無量寺の西方、野趣にあふれた野道を行くと、ひとむらの雑木林があり、その中に五輪塔や宝篋印塔などを組み合わせて3基の墓が作ってある。
岡崎義実とその嫡子真田与一の乳母、吾嬬の墓といわれる墓石である。
義実は、我が子与一に仕えた忠実な乳母、吾嬬(あずま)を手厚く葬り、自身もまた同じところに葬られたと言い伝えられている。
平成12年8月には義実の没後八百年を記念して、木製の供養塔が建てられた。
(伊勢原市ウェブサイトより)