後背の伊東祐親の軍により源頼朝公の包囲され多くの兵...
ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地) / / .
源頼朝が挙兵した石橋山古戦場の近くにあります。
石橋山の戦いでは、大庭景親ら3000騎に対し300騎の源頼朝軍では衆寡敵せず、また、後背の伊東祐親の軍により源頼朝公の包囲され多くの兵が打ち取られしまいます。
佐奈田与一義忠は、その石橋山の戦いで先陣を務めた武将です。
相撲の名手といわれた俣野景久(大庭景親の弟)と戦い、景久を一旦は組み伏せますが、敵将を討った時に拭っていなかった血のりで刀を抜くことができず、駆けつけた長尾定景に討たれてしまいます。
この場所で、佐奈田与一義忠と「ねじりあった」俣野景久は、その昔、源頼朝を慰めるために奥野(現在の伊東市)で催された狩猟の余興で行われた相撲では21連勝を挙げます。
この21連勝を止めたのが、後背から攻めた伊東祐親の嫡男「河津祐泰」で、その時の技が「河津掛け」と言われています。
更には、この狩猟の帰りに、「河津祐泰」は、工藤祐経に射かけられた矢をより落命してしまいます。
そして、これが「曽我物語」の始まりとなります。
佐奈田与一義忠が俣野景久とねじりあった後、この畑では、作物がねじれて成ってしまうので、「ねじり畑」と呼ばれているそうです。
石橋山の戦いで源頼朝公の命運が絶たれたように思われますが、その後、安房に逃れて1カ月後に鎌倉入り、富士川の戦いで神懸った勝利を得ます。
ある意味で、佐奈田与一ら一党は、敗戦による運命をねじきったように感じます。
また、佐奈田与一敗死を知った与党の文三家安は、そのまま敵中に身を投じ討ち死にしてしまいます。
源頼朝公は鎌倉に幕府を開い後、この地を実際に訪れ、佐奈田霊社の与一塚と従者の文三家安を祀った文三堂の二人の墓前で、その忠節を偲び涙を流したと伝わっています。
2021年1月16日ここが平塚の真田与一が討死したところ。
佐奈田与一の頓死から、ここで収穫する作物がねじれるとの言い伝えですが現代は果樹園 ( 蜜柑畑 )ですね✨ねじれたみかんが収穫できればビッグニュースですよね😅2018/03/16に訪れました追記ねじり畑の由来は与一が股野五朗と組打して上になったり下になったりでねじりあった所なので😃2018/09/14
名前 |
ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/corridor/historic_battlefield/p10044.html |
評価 |
3.9 |
石橋山の戦い時に討たれた佐奈田与一を祀った霊社です。
ご住職から掛け軸の説明や色々とありがたいお話を伺いました。
壮絶な戦いがあったとは思えない程に静かで、とても長めの良い場所です。
のど飴もとてもよかったです。