摂津国八十八ヶ所霊場の一番札所です。
大阪七福神の「弁財天」を祀る。
ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」は、仏教に取り入れられると「弁才天」と訳され、神仏習合で神道に取り入れられると、財宝神として信仰されたので「弁財天」と記されています。
音楽、弁舌、財富、知恵、延寿のご利益があります。
推古天皇の時代、聖徳太子が志宜野(現在の鴫野であり法円坂)に法案寺を建てると、山号を「志宜山」とし、仏法を広めるよう公案したため「法案寺」と呼ばれたのが始まりです。
平安時代には隣接する「生玉神社」と神仏習合し、神宮寺として栄えるも衰退。
石山合戦で一度焼失しますが、大阪城築城の際には生玉町(生国魂神社のある土地)に移転しました。
大坂夏の陣で二度目の焼失をするも復興して栄えましたが、明治時代の神仏分離令によって神宮寺は生玉神社と離されて、現在の島之内に移りました。
後の大阪大空襲で焼失するも、重要文化財の「聖観音立像」は疎開によって無事に戻り、寺院も復興しました。
生玉町にあった頃に比べると規模は縮小しましたが、真言宗寺院であり、摂津国八十八箇所第1番の札所として現在も格式を保っています。
約1400年前聖徳太子が建立したと伝えられている、聖観音立像国指定重要文化財は元旦から1週間開帳される、歓喜天は日本橋聖天、弁財天は大阪七福神です、山号は志宜山。
摂津88ヵ所霊場1番札所。
街の中にある寺院。
弁財天も祀られて、大阪七福神になっています。
七福神巡りで参拝しました。
ビルや駐車場が立ち並ぶ中で、ホッとする空間がここにはあります。
寺務所で御朱印が頂けます。
とても美人な弁財天様がいる。
呼び出しのインターホンが鳴ってるのか鳴ってないのか分からない。
事務所の猫がかわいい。
美しい弁天さん いてはるわ〜。
日本橋駅から10分以内に着く弁天様を祀る神社で商売繁盛と金運アップと言われている。
電車で行けて交通が良いです。
すぐにわかります。
大阪南の島之内にあり宗右衛門町にも近い所にあります。
大阪七福神の『弁財天』です。
摂津国八十八ヶ所霊場の一番札所です。
ここも町の中に有ります。
ここで御朱印を貰ったのですが、大阪七福神の御朱印を書かれてしまいました。
新たに書いて頂きましたが、御朱印帳を別けていたのでちょっとショックでした。
宗右衛門町の通りにある高野山真言宗別格本山の寺院です。
大阪七福神巡りの弁財天になっています。
境内には、祠の弁財天と像の弁財天がおられます。
ご本尊は薬師如来。
御朱印はご本尊の薬師如来と七福神の弁財天の2種類あります。
右耳を桜に切った地域猫さんを飼われているようで、寺務所のカウンターにカリカリが置いてあり猫さんは寺務所の中にいましたが、お参りをしていると外に出てきていました。
とても人懐こい猫さんでした。
場所柄、アジア系の外国人観光客が団体でドヤドヤと入ってきて大声で喋ったり、想定外の行動をするので、少し落ち着かない雰囲気の境内でした(猫に手水の水をかけたりしてました)。
お寺の方は色々大変だと思います。
最初、本堂の扉が閉まっていましたが、本堂の前で真言をお唱えしていたら、本堂の中におられたお寺の方が扉を開けてくださり、薬師如来さんを見ることができました。
大阪七福神巡りで、参拝して来ました。
ほんとに街の真ん中と謂うか、インバウンド需要対応に変わりつつある日本橋の直ぐ側、黒門市場の対面の小路にあります。
とても親切にお参りに対処して頂き、御朱印までも真摯な御成りです。
島之内仏恩由来のキャッチコピーが、『動乱を生き抜く』と記されています、聖徳太子、蓮如、豊臣秀吉、大阪の陣、神仏分離、大阪大空襲、 英雄達との出会い、歴史の動乱を乗り越え、庶民救済の法灯を守り続ける。
と関係ありませんが、大きな可愛いい猫がお出迎えをしてくれます。
街中にあるのに、ひっそりと静かで小さなお寺です場所も分かりやすい所でした可愛いい猫がいました。
平成30年5月22日参拝摂津八十八ケ所霊場 第一番札所大阪七福神めぐり:弁財天御朱印あり(八十八ケ所霊場、七福神めぐり)本尊:薬師如来宗派:高野山真言宗寺伝によると推古天皇の時代に聖徳太子に創建されたとされる寺院。
当初は別の場所にあったが、豊臣秀吉の大阪城築城の際に生玉明神とともに馬場崎に移転し、その後、明治期の廃仏毀釈後に現在地に移転したとされる。
昭和二十年の大阪大空襲により堂宇は灰塵に帰すというが、聖観音、歓喜天は消失をまぬがれ、いまは本堂にまつられている。
本尊は薬師如来だが、聖観音、歓喜天のほうが有名。
聖観音は「藤原仏」で、重要文化財の指定を受け、毎年1月元旦から7日までご開扉される。
法案寺について、『大阪府の地名1』南区:法案寺の項目から抜粋して、ご紹介します。
高野山真言宗、山号志宜山、本尊聖観音立像。
南坊と通称し、もと生国魂神社の神宮寺であった。
古くは法安寺と表記する場合が多い。
寺伝によると、聖徳太子が生玉明神の奇端を感じて志宜野(現中央区)に社殿を建立し、傍らに堂舎を建立したのが草創と伝える。
「義演皇后日記」慶長5(1600)2月11日条に法安寺について「聖徳太子御建立寺也」とみえる。
勅願寺であったが漸次衰退し、応永年間(1394-1428)松永政広の子正意が再興した。
当寺第三世正教は、本願寺蓮如に帰依して当寺の近くに祐光寺を建て、当寺は祐淳が継承した。
「天文日記」天文5年6月3日条を初めとして、法安寺が頻出するが、この頃は石山本願寺と堀一筋を隔てた西側にあり、本願寺と密接な関係を持っていた。
同2年5月本願寺が細川晴元被官木沢長政らの攻撃を受けた時には、軍勢が当寺の塀13間を切り崩している。
本願寺は寺域の要塞化を強化するため隣接地の買得を考えていたが、この頃から積極化しはじめた。
当寺を含む寺域は相国寺子院鹿苑院領志宜庄に含まれており、当寺は同院に属していたため、買得交渉は同院と行われた。
この交渉の際、寺地を50.000疋で売却しようとしたり、地子銭一括払いを要求したり、鹿苑院と共に財政的窮乏が著しかったといえる。
(後略)【出典】大阪府の地名1(平凡社)南区:法案寺また、法案寺について、東区「志宜庄」、同区「石山本願寺跡」の項目にも詳しく記述がありますので、ご参照下さい。
それから、この法案寺の所在地が今も論争になっていて、確定はしていませんが、「天文日記」など当時の一級史料に出てくる法案寺は、まさに今の法案寺南坊であり、つながっている事は確かです。
余談ながら、天文日記の天文2年5月条に見える、「...塀13間を切り崩し」の件(くだり)では、摂津国人池田筑後守信正も細川晴元の側近であっため、この戦い(行動)に加わっていたと考えられます。
立派な寺院でした。
御朱印も頂いてきました。
大阪七福神巡りの弁財天さまの朱印を頂きました。
弁財天様が祀ってあるお寺です。
大阪七福神の弁財天。
繁華街の中、結構な怪しげなところに存在する由緒あるお寺です。
かつて神宮寺だった名残でしょうか、本堂の前には狛犬さんが鎮座しておられます。
名前 |
法案寺南坊 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
06-6211-4585 |
住所 |
〒542-0082 大阪府大阪市中央区島之内2丁目10−14 |
評価 |
4.2 |
日本橋の聖天さん。
御本尊は薬師如来ですが、聖観音、歓喜天が有名です。