ひっそりと石碑のみでした。
今から四百年以上も昔、大坂の町は太閤秀吉の都市計画でつくられました。
中でも秀吉が力を入れたのは下水道の背伊部でした。
街区の北半分にある建物は入口を北に向け、南半分の建物はその逆とさせ、それぞれの建物の背中(裏側)にあたる部分に東西方向へ走る下水道を掘削したのです。
建物の背中合わせの部分を割るように開削したことから、これを「背割下水」または秀吉にちなんで「太閤下水」と呼び、今に続いています。
世界的に見ても画期的なこの水路、大阪市内に今も四十キロほど現役で活躍していますが、実はこの路地の下にも息づいているのです。
建物の背巾合わせの部分に走る暗渠下水とその上に通る路地――この空間はまぎれもなく、大阪の歴史を伝える遺産です。
名前 |
太閤路地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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ひっそりと石碑のみでした。