写真は安閑天皇陵ですよね(笑)
水盛(水守)城は、構造的に南からの攻撃に弱い高屋城の弱点を補完する目的で、高屋城と同時期に設けられた枝城の一つと考えられる。
幾度と無く繰り返された高屋城をめぐる攻防戦は、主に北の不動坂、西の大手で行われた。
南からの攻撃は一度、元亀二年(1571)十月、三好氏が試み、水盛城周辺で激戦が繰り広げられたが撃退されている。
水盛城の中心は、2005年9月、三角縁神獣鏡が出土して注目された「庭鳥塚古墳」の南に隣接した住宅地、羽曳野市東阪田83周辺で、土居ノ内・土居下などの小字名が残る。
なお庭鳥塚古墳は水盛城の櫓台だったと考えられる。
水盛城東側の直下には東高野街道と旧大乗川の取水口があり、街道の通行権及び水利権を支配する意味からも、この地は重要な場所で、高屋城より古い時代から城として存在していた可能性もある。
名前 |
水盛城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
写真は安閑天皇陵ですよね(笑)