現在は安閑天皇陵として立ち入り禁止となって居る河内...
安閑天皇陵古墳、そして高屋城址。
畠山氏の居城。
応仁の乱の終結後、畠山、安見、三好が約100年にわたり拠点としてわ織田信長により落城された城。
歴史的にも重要なお城で、三管領の一つ、畠山氏の本拠にもなった城ですが、本丸は天皇陵のため立ち入れず、二の丸や三の丸は住宅街となっているため遺構はほとんど残っておらず、往時を偲ぶべくもありません。
ただ、二の丸や三の丸のあったあたりの西側や東側を回ってみるとこの辺り一帯が台地となっていて高低差があって急な斜面というか崖になっており、そういった天然地形を活かした城であったことが想像できます。
古い航空写真と照らし合わせてみると、コープ城山店のあるあたりから北側が城域のようです。
現在は安閑天皇陵として立ち入り禁止となって居る河内国の中心地的城郭の本丸です。
数多の闘いを経験した城も今は静かに佇む様は『古強者どもの夢の後』を感じさせます。
案内看板は東高野街道沿いに有ります。
古代ロマンが好きな方には旧170号線沿いに簡単に入れる拝礼所も有ります。
個人的には好きな史跡の一つです。
本丸跡は天皇陵の為立入り出来ない。
だが、不動坂櫓台跡・二ノ丸土塁跡など遺構は町の中に残っている。
高屋城は石川の東側にある標高約47mの河岸段丘にある独立した丘綾に築かれた平山城になる。
大乗川は現在本丸付近で東流しているが、江戸時代に流路を変更したため、元来は北流していた。
北側は要害の地形になっている。
高屋城は大きくわけて3つの曲輪から成り立ち、一つの曲輪の面積では日本最大級となる。
本丸は規模は7ヘクタールあり、高屋築山古墳を利用して作られている。
畿内でもいくつかの古墳を取り入れた城郭は見受けられるが、その多くが墳丘部分のみを使用しているのに対して、高屋城では古墳を取り巻く周辺部分も取り入れている点が特徴である。
二ノ丸の規模は7ヘクタールあり、二の丸中央部の海抜は約39mあり、何回かの発掘調査により二の丸には上層階級の人々が、三の丸には下級武士が生活していたことがわかった。
それ以外では、二の丸には整然と地割された武家屋敷群が建っていた。
三の丸の規模は10ヘクタールあり、掘立柱建物の遺構が数多く検出されているので、下級武士が生活していたと推察されている。
またこの北東部分に東西約15m、南北約30m、高さ8mの土塁跡の上に馬出し状の櫓があったと推定されている。
昔からどうも、安閑天皇陵で正しかったらしい。
というのは、河内名所鑑に、天皇陵に陣所なんぞ置くから、早く滅んだ。
云々の記述があるので。
地震で、埋蔵物が出てくるまでは、どうも普通の山扱いだったようだが、それでもよく残っていたものである。
陵墓を取り込んだ城!
安閑天皇の御陵が中世に改造され、高屋城と呼ばれました。
別名「高屋築山古墳」。
墳丘長122mの前方後円墳、築造時期は6世紀初頭と推定。
一見ありふれた天皇陵のように見えるが、この古墳がこれまでたどってきた歴史や、出土物はなかなか興味深い。
この古墳は、室町時代後半に「高屋城」が築かれ、応仁の乱以降、戦いが繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わったとのこと(ウィキペディアより)。
また、この古墳から出土したガラス碗はササン朝カットグラスで、このあたりが、シルクロードの終着点のひとつでもあったとも考えられる。
高屋城跡です。
天皇陵につき宮内庁管轄の為立ち入り禁止になっております。
城跡碑や説明板などはココにはありませんでした。
入れない。
案内板は姥不動明王さんに。
森に囲まれたこの城跡は宮内庁の管轄で残念ながら中に入れない。
名前 |
高屋城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
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高屋城。
安閑天皇の古墳に本丸を置いた城。
この城の起源は難しいが、畠山家が、南北朝時代に徐々に整理し吉野の南朝や南朝方の楠一族と戦う中で繁栄した城と見て良いのかもしれない。
北から本丸、二の丸、三の丸と南北の八百メートルの面積があったらしいが、本丸は古墳で、二の丸、三の丸は住宅地となっており、入れないわ、見れないわで現地に行く意味は各々見出す必要がある城です。
一番南に三の丸があり、南からの攻撃を耐えるタイプの城であったと思う。
最寄りの古市駅から徒歩5分圏内で、摂津、和泉から奈良へ抜ける際はここが交通の要衝として宿場街として繁栄したのは間違いない。
高屋城は、三好長慶が台頭すると、長慶の弟三好実休が城主となり、三好家の勢力拡大に貢献した。
実休が久米田で戦死するまで居城にしていた。
謎が多い城であるが、マニアなら一度は戦国の頃に思いを馳せてみてほしい。