奉行所跡にあるレトロ役場です。
親切丁寧です!
松前町の中心部にある町役場です、さりげなく正面玄関の所に「史跡松前奉行所跡」の石碑が表示されています。
キャラクター大漁くん⇒松前本まぐろを津軽海峡で釣り上げる漁師📖古鼠昔、松前の山奥に周防堂(すおうどう)というお堂があり、そこには大きな古鼠が棲んでいた。
その古鼠は、毎年若い女性を生け贄にしていた。
秋田・山内を居城としていた山内采女正(うねめのしょう・采女頭【うねのかみ】とも)が戦に敗れて松前へ落ち延びてきて、町家に寄せてもらっていたが、この采女正が松前に来た年に、この町家の娘が、ちょうど鼠の生け贄の番になっていた。
そこで、寄せてもらっている恩返しにと、采女正が娘の代わりに行くことを申し出、周囲の反対を押し切って、篭に乗って周防堂へ行った。
息を殺して待っていると、夜中に大きな古鼠がわらわらと集まってきて、采女正を噛み殺そうとした。
そこで采女正は隠し持っていた短刀を持って篭から飛び出し、一匹残らず鼠を刺し殺してしまった。
翌朝、町へゆうゆうと帰った采女正は事の次第を話し、町中の人々が喜んで采女正を敬い「殿」と呼ぶようになった📖糠盛山円錐形の形をして、米糠を盛ったような形をしているので、この名がつけられた。
義経主従が頼朝に追われてエゾ地に逃れて釆たときのこと、義経が玄米を臼でつき、精米したときに、弁慶がふるい落とした糠を捨てたのが積もり積もって高くなってできた📖ショヤコウジ兄弟の戦い渡島半島東部の首長ショヤコウジ兄弟によって、渡島半島南西部を支配する蠣崎氏に対しての攻撃が開始された。
劣勢に立たされていた光広は、騙し討ちのために和睦を装って酒宴を開き本拠地である松前大館へ兄弟を招く。
そこで光広は兄弟らを酒に酔わせ、宝物を差し出すふりをして兄弟らを油断させる。
木槌の音を鳴らさせて騙し討ちの準備に気付かれないようにし、隙を見て仕掛けのついた戸の裏から兄弟らを襲撃。
光広によってショヤコウジ兄弟は斬殺され、他のアイヌも蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされた。
この時光広が用いた刀は、父信広が蠣崎季繁から受け取った家宝来国俊であった。
2人の首長をはじめとする殺されたアイヌは館の近くに埋められ、そこに塚が築かれて「夷塚」と呼ばれた。
アイヌとの講和(商舶往還の法度)が成立する季広の代まで、アイヌに対して蠣崎氏の軍勢が出撃しようとすると塚からかすかに声が聞こえた📖網切騒動松前藩では、水産資源保護や小規模漁民の生活維持を目的として鰊漁における大網使用を禁じていたが、実際には場所請負人を務める大商人や彼らに雇われた「二八取」と呼ばれる有力漁民の意向を受けて密かにこれを認め、その収益の一部を藩に納めさせることで藩財政の一助としてきた。
1855(安政2)年春は異常な不漁で、江差周辺の漁民たちは藩に対して大網の禁止を徹底するように求めたが、藩の対応は十分なものとは言えなかった。
これに憤慨した乙部・熊石の間の8か村の漁民たち500人が西蝦夷地各地の大網を破壊し、遂には江戸幕府直轄地であった古平場所のものまで破壊してしまった。
しかも、この直前の同年2月に漁民たちの住んでいた沿岸部を松前藩から江戸幕府に上知するとの合意が成立していたため、この事件の処理をどこが行うかが問題となった。
まず、同年7月に松前藩が漁民の行動を非難しつつも元は場所請負人や「二八取」が大網禁止の規定に違反したからであるとして改めて大網の厳禁を命じた。
ところが、場所請負人や「二八取」が支配の移管を見越して箱館奉行に訴え、同年12月に1年間限定で大網使用を認める許可を獲得した。
その後、箱館奉行は漁獲の維持・拡大を意図して場所請負人・「二八取」寄りの姿勢を示し、翌年には大網禁止を取りやめる代わりに大網を用いる場所請負人・「二八取」から大網1統につき3両を冥加金として徴収し、その2/3を米に換えて8か村の漁民の救済に充てることとした。
だが、1860(万延元)年には無条件で大網の使用を認めることとした松前町役場 奉行所跡現在の松前町役場の位置に町奉行所と町会所があった。
住民の行政、治安を司る町奉行所は寛永年間には、すでに設置されていたが奉行・吟味役・下吟味役があり、二人以上が同職にあって月番を担当した。
町会所は役場の南側駐車場のところにあった。
ここは全く町民自治の機関として町年寄りー見習一町下代一町小使一名主一町代一五人組合頭があり、この二つの機関の連携には奉行所下代が町年寄と連携を取り、町年寄は町衆から出される総ての書類に奥書き進達した。
奉行所の建物は1870(明治3)年5月15日の火災で焼失し、家老松前右京邸を移築して使用し、開拓使分署、松前郡役所を経て松前(福山)町役場として使用された。
この建物は1934(昭和9)年12月28日国史跡に指定されたが1949(昭和24)年6月5日の火災で焼失、その指定を解除された福山 玄狐(げんこ)稲荷📖玄狐伝説(1)松前家第13世道広の前室は、前右大臣花山院常雅の息女初姫で、1771(明和8)年入輿した。
初姫は日頃京都九条稲荷を尊宗していたので、蝦夷地に来るに当たって九条稲荷は姫の道中を守護するため、多数の狐を付き添わせた。
1778(天明8)年南部の山伏大昌院という者が箱館にいたが、当時近海がまったく魚が捕れなくて人々が苦しんでいた。
そこで道広は再び魚が捕れるように、大昌院に百日の修法を命じた。
大昌院は毎晩弁天浜の海中に飛び込み、経文一巻ずつを読みつつ苦行を開始した。
その第一夜より弁天堂の上に、世にも珍しい一匹の黒狐が篭って、それはついに99日に及んだ。
その99日目すなわち満願の前夜、大昌院の身辺に黒狐が現れて、「自分は京都九条の狐である。
初姫君が入輿した際に見送りのため来道した。
姫君がご逝去された後、他の狐はみな故郷へ帰ったが、私は知内の狐と契りを結び子まで儲けたため帰郷せずにいた。
そして、1782(天明2)年藩主が狩猟のため知内へ来た時、自分は道端に隠れてその行列を見ていたが、その時不運にも殿の目に留まってしまい、珍しい黒狐だ、早く討ち取れと言われ、ついに藩士厚谷伴蔵の筒先に落命してしまった。
それ以来未だに魂が浮かばれずにここに彷徨っている。
もしわが魂を一祠をもって祀ってもらえるなら、長く城下の守護をしよう。
そして、このことを藩士藤倉八十八に伝えて欲しい。
」と言った。
1802(享和2)年、城下唐津内沢奥に一社、知内に末社を建てて、共に玄狐稲荷と呼んだ📖玄狐伝説(2)尻内山に黒狐が棲むという噂があり、道広がこれを欲して家臣に狐狩りを命じた。
家臣は黒狐を見つけて銃口を向けたが、天がにわかにかき曇り一寸先も見えない闇となって見失った。
今度は厚谷伴蔵を狩りにやったが、黒狐に銃を向けると再び真っ暗になってしまった。
そこで伴蔵が「私は君命によって撃つのだ。
たとえ幻術で一旦免れても、必ず撃たねばならないのだ。
早く幻術を解き安らかに撃たれよ!」と大声で叫ぶと、闇はたちまち消えて黒狐が姿を見せたので、これを射止めて殿に献上した。
殿は大いに喜び、その肉を家臣中津源兵衛に与えたが、その源兵衛は間もなく聾者となり3年目に病死した。
また、厚谷伴蔵も悪病におかされて死に、その子もある罪によって追放されてしまった。
狐の皮は、道広が家来に命じて干させていたが、毎晩一匹の狐が訪れてその皮を返して欲しいと懇願した。
家来は道広にこのことを言うのだが、道広はそれを許さないでいると、ある日いつの間にか皮が何者かに引き裂かれてしまった。
そうしているうちに、ある者にこの狐がとり憑いてしまい、「鰊をとらせぬようにしてやる」とか「自分はかつて花山院家から来た使いの狐だが、妻に惹かれて帰郷せずにいるうちに災難にあってしまった」とか口走っていた。
すると、本当にそれ以来鰊が捕れなくなってしまった。
そこで、驚いてこの黒狐を「玄狐稲荷」として祀った。
奉行所跡にあるレトロ役場です。
名前 |
松前町役場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0139-42-2275 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.3 |
意見箱に入れた意見に対し、お詫びとお礼の電話がかかってきたのは驚きでした。
親切、丁寧な対応をしているのがよく解ります。
過疎化で大変でしょうが、元町民として、また町に活気が戻ってくることを願います。