府中に有る崇徳上皇も訪れたと云われある神社です。
Rest In Peace Sutoku
崇徳上皇縁の神社だそうです。
ここは、保元の乱(1156年)で敗北した崇徳上皇の御所、木の丸殿(*1)の在ったところです。
上皇は保元元年(1156年)から綾川下流沿いに在った雲井御所(*2)に約2年住まわれた後、保元3年(1158年)にこの地に移り住まれ、長寛2年(1164年)8月26日にここで崩御されました。
建久二年(1191年)、後白河上皇の命により木の丸殿を白峯御陵に移し跡地に之に代るべき祠を建立し上皇の御神霊を祀ったのが鼓岡神社の草創と云われています。
境内にはその他、観音堂(*3)、杜鵑塚(ほととぎす塚)(*4)、鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、更に境内に隣接して内裏泉(*5)(境内への石段の右手にある民家の裏側にあります)などの遺跡があります。
(*1)木の丸殿 木ノ丸殿とは,木の丸太で造った御所といった意味合いで,御所としてはとても粗末な造りであったようです。
いま、境内の石段を登ったすぐ右手に「擬古堂」と呼ばれる建屋があります。
これは木の丸殿を偲んで大正時代に造られた小さな建造物ですが、実物の木の丸殿はこれより遥かに粗末で小さな建屋であったとも伝えられています。
この建屋のすぐ目の前には国司庁があり、役人の厳しい監視の目が常にあって上皇は思い通りに行動することは叶わなかったことでしょう。
(*2)雲井御所 都から配流(島流し)になった上皇は、讃岐国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅の一画を仮の御所としたと伝えられています。
この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に,「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」(空を行く月の影があちこちにできるように、ここもまた思いがけず住まいとするところになってしまいました)というものがあります。
この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。
(*3)観音堂 崇徳上皇の念持仏は十一面観世音菩薩であったようです。
境内の裏手にも観音様らしき像を刻んで納め祀った石の祠が何の説明もないまま、ひっそりと置かれています。
(*4)杜鵑塚(ほととぎす塚) 上皇が木の丸殿で詠まれたとされる、「啼けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」(ホトトギスの鳴き声を聞くと都が恋しくなります。
早く私のいるこの里から去って行っておくれ)の歌を偲んで造られた塚。
一説では上皇の意を察してか爾来この里ではホトトギスは啼かなくなったとも云われるが、毎年、初夏の頃になると、「キョ、キョ、キョキヨキョ」と今も元気に囀っています。
(*5)内裏泉(だいりせん) 鼓岡神社のある地は小さな丘状になっており、木ノ丸殿の生活上の水場として利用された井戸は、今の境内の外、北側に隣接した民家の裏にひっそりと今も残っており、この水を生活用として使っていたと伝えられています。
ここはちょうど城山の谷筋に位置し、一年中、水が枯れることはないようです。
保元の乱で敗北し配流された崇徳上皇が、6年余りの間生活を営み崩御された「木の丸殿(このまるでん)」。
重鎮皇帝(原文)崇徳上皇。
崇徳上皇ゆかりの地の1つである神社です。
名前 |
鼓岡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E9%BC%93%E5%B2%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
評価 |
3.9 |
府中に有る崇徳上皇も訪れたと云われある神社です。
崇徳上皇や大正天皇の歌碑も有ります。