鎌倉後期の作、国の重要文化財です。
鎌倉時代に一遍上人が奉納したものだそうです。
大山祇神社は歴史的に凄いものが沢山あります。
鎌倉時代の印塔。
神社の山手に佇んでおり、重文史跡。
鎌倉時代に建築されたもので、歴史の深さを感じます。
愛媛県下には数多くの石造文化財が遺されている。
その中でも特に優れた大型の宝篋印塔。
この宝篋印塔は、源平合戦で活躍した河野水軍の大将の河野通信の孫に当たる時宗の開祖 一遍上人の志により建立された。
一遍上人は、亡くなる前年の正応元年(1288)年12月16日に神社に参拝し、三日間にわたり法楽念仏を行っている。
その時、河野氏の氏神とされているこの神社を仏教の姿でも祀りたいと言う願いを持っていた。
このような願いを没後、30回忌の時一族の越智通純が費用を負担し、そのいわれを弟子の聖戒が書いて奉納した。
宝篋印塔は通常一基であるが、ここには三基並んでいる。
それは大山祇神社の本殿と左右の上津社と下津社の姿を現したものです。
この塔には、形の上で2つの特徴があると言われています。
その一つは塔身の下に請座があることで、これを瀬戸内式と呼んでいること。
二つ目は上部の宝珠の下の蓮の花びらが下を向いていることです。
三基の塔は、神仏分離令(明治1/1868)以前には、大山祇神社本殿裏にあったという。
ということは、それぞれ大山積神一座・上津姫(※)&雷神・下津姫(※)&高龗神と対応し、同時に鷲ヶ頭山・安神山・小見山と対応しているのだろうか。
※『大山祇神社略史』には、上津姫は磐長姫を、下津姫は木花開耶姫を指すのでは?という推測がある。
また、三基を『宝鏡、宝劒、宝玉塔』と記す記録があるそう。
大山積神の娘婿である瓊瓊杵尊が天照大神から授かったという『三種の神器』の組み合わせにしているのは、少々謎めいていて興味深く思う。
それ以上に謎めいているのは、中央の塔の上の花請が下向きに咲いていることである。
未確認ながら、大山祇神社本殿の扉が内開きという話もあり(このクラスの神社本殿では、ほかに大隅國一之宮 鹿児島神宮、別表神社の八坂神社ぐらいか?)、関連性の研究が待たれる。
鎌倉後期の作、国の重要文化財です。
道の横にボツンと有るので見逃しそうになります。
名前 |
宝篋印塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
鶴姫ロード沿いにあります。
神社から橋を渡ってすぐです。