いつも横を通り過ぎるばかりですみません。
いつも横を通り過ぎるばかりですみません。
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることはまちがいありません。
善通は佐伯氏の先祖で、白鳳期の前身寺院が衰退したのを勧進して再興した。
佐伯氏は、白鳳期の伽藍の西に居を構えて、善通寺の別当(俗別当)の地位を確保していきます。
空海の生家の佐伯氏は国造といわれますが、奈良時代末から平安時代初期には、すでにそのような権威の家はなかった。
国造がいたのは飛鳥時代や大化の改新以前のことで、それ以後は国家組織が違っています。
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって進退された。
そのときは東寺や随心院からの支配であったために、善通寺が別当の進退を拒否した文善がたくさんあります。
善通寺が衰道して、善通寺を支配する別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになると、善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。
この場所は時代によって方田とも弘田とも呼はれているので、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺にならなけれはなりません。
ところが、善通という個人の俗名を付けたのは、善通が復興の勧進者であったためではないでしょうか。
西院が御影堂になる前は阿弥陀堂でした。
善通寺によく像た善光寺の本堂も当麻者の曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。
現在は弘法大師の御影をまつっていますが、東向きであるという点から、もとは阿弥陀堂だったとおもいます。
本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。
東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。
善通者にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。
什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。
つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。
名前 |
聖霊殿 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
何のお堂なのかずっと知らなかった。
素通りしてきてすみません。