中心の小高い丘の上に末広稲荷神社があったため稲荷町...
この辺りに遊郭がありました。
元禄時代には稲荷町の遊女87人とあり、天保9年の「赤間関人別帳」によると、稲荷町には遊郭が九軒あり、なかでも大阪屋が最も大きく、女郎23人、禿13人、三味線師匠7人の規模であった。
(図説「下関の歴史」より)
この辺りに遊郭がありました。
元禄時代には稲荷町の遊女87人とあり、天保9年の「赤間関人別帳」によると、稲荷町には遊郭が九軒あり、なかでも大阪屋が最も大きく、女郎23人、禿13人、三味線師匠7人の規模であった。
(図説「下関の歴史」より)
江戸時代、この辺りに旧北浦街道沿いに栄えた下関屈指の花街があり、中心の小高い丘の上に末広稲荷神社があったため稲荷町と呼ばれていた。
敗れた平家の女官たちが遊女になり、生活の糧を求めたのが起源とされている。
この一帯は戦災で焼かれ、当時の面影を残すものは現在は何も残ってない。
末広稲荷神社もが今は小さな祠があるのみとなっている。
この界隈にあった『宮屋』という遊郭に龍馬が遊んだ話もあります。
おりょうさんが、朝帰りの龍馬と喧嘩した時も、この辺りの花街からの朝帰りだったようです。
また、高杉晋作や伊藤博文が通ったお店『油安』だそうです。
伊藤博文が、亀山八幡宮にあったお亀茶屋で知り合った梅子と最初に所帯を持って住んだのもこの界隈であったようです。
名前 |
旧赤間関稲荷町跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
幕末、下関の高杉晋作を訪れた坂本龍馬も遊んだ遊郭街だったそう。
大正までは盛況な色町だったそうですが、一切痕跡がなく石碑が残るのみ。
石碑の文面は、かつてここで身をもって働いた女性達に敬意を評したもので、泣ける文面でした。