名前 |
重兵衛渡し跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
説明板より→昭和四十六年、廃止した「重兵衛渡し」は、石狩川第一原野渡船場と云い、初代の船夫「武田重兵衛」氏の名により江別市民に親しまれてきた。
武田重兵衛氏は、明治二十二年、福井県より江別村に移住し、江別屯田の追給地となった第一原野の開墾のため、丸木舟で石狩川を行き来し、村民の足としても利用された。
明治二十七年、市街地と一原部落の往来者の増加により、北海道庁の許可を受け、正式の「渡し」となった。
明治三十五年、一原部落の運営となり、翌年の当別・新篠津からの道路開通により、大正九年に石狩大橋が完成するまで交通の要所であった。
この間、明治三十二年に重兵衛の三男仙太郎他六名、昭和五年に十三名が水死した大事故があったが、江別市街と一原、美原地区とを結ぶ主要な交通路として利用されてきた。