新居大隅守資秀(新居藤太夫資光の四男)の次男十郎秀...
末沢城跡(万灯城跡) / / .
この城は国分寺中学校の東方面400メ―トルへ行くと楠木が3本立っている家が、末沢城主末裔の新ノ居氏宅である。
ここが万灯新居氏(後の末沢氏)の居城のあった末沢城跡である。
万灯の集落はほとんどが末沢性で、その中の一軒のみが新ノ居性である。
同家には(末沢城由来記)(申伝由来記)(家系図由来書)等が伝わる。
初めは万灯氏を名乗ったが応仁の乱で細川勝元に従って軍功をあげた資忠が、勝元より末沢性をもらったという。
一代おいて資規の時、土佐長曽我部軍に降った。
城には子孫が居住して建物や堀などにたびたび手を加え、1747年には民家の形に改築され、昔日の面影を失ったという。
また、江戸末期に旧姓をとつて新ノ居性に改め現在に至っている。
その外に近くの住宅地の中に末沢氏祖先碑がある。
名前 |
末沢城跡(万灯城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.7 |
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新居大隅守資秀(新居藤太夫資光の四男)の次男十郎秀親が万灯川の南に居館を構え万灯新居氏を名乗る。
14代資忠は応仁の乱で東軍に属し軍功を上げ、末澤姓を賜る。
19代資規は長宗我部氏の侵攻に屈し、20代秀継が仙石秀久の旗下として豊後に出陣、のち大坂冬の陣にも出陣。
江戸末期の 28代文左衛門が元の新居姓に復したという。
伽藍山の西麓の万灯集落に一軒のみ新ノ居姓があり、古くから「城」の屋号を持つ。
「末澤城由来記」 「申伝由来記」 「家系図由来書」が伝存する。
宅地の西 ・北側に古手の石垣、北側石垣の上部は土塀台の様相が見られる。