埴輪をつくるために多数の登り窯があったらしい。
このあたりは古墳時代には、埴輪をつくるために多数の登り窯があったらしい。
そして、登り窯に従事する人たちも大勢住んでいた。
それが、土師氏だったのか。
だから、このあたりは「土師ノ里」なんだな。
以下、藤井寺市Webページより抜粋。
「さて、ここで話を土師氏の仕事に移します。
土師氏の仕事といえば、野見宿禰が考案したとされる埴輪作りがすぐ頭に浮かんできます。
事実、仲津山古墳の南側から道明寺天満宮の石段にかけての斜面には埴輪を焼いた窯(かま)が見つかっています。
窯は朝鮮半島から伝わった硬質の土器須恵(すえ)器を焼く窯をまねたもので、斜面に煙突を倒したような登り窯形式でした。
これまで発掘で確認されているのは11基ですが、未調査地にはこれに倍する窯が眠っていると推測されています。
ここで焼かれた埴輪は、誉田御廟山古墳や市野山古墳などに供給されました。
ただし、登り窯形式を採用するのは5世紀中ごろ以降ですので、それまでに造られた仲津山古墳や城山古墳には野焼きで作られた埴輪が使われていました。
野焼きの跡はまだ見つかっていないのですが、供給する古墳の近辺にあったのではないかと想像しています。
埴輪の生産方式が野焼きから登り窯に転換したのは、超巨大古墳誉田御廟山古墳の築造を控えて、はやり言葉でいえば古墳造りの構造改革の一環だったように思います。
墳丘長200メートルの古墳と400メートルの古墳を比べると、長さは2倍ですが、体積は8倍、表面積は4倍にもなるのです。
古墳造りのシステムをより効率的なものに作り替えて対処しようとしたのでしょうか。
埴輪作りの分野では、大きさを規格化し、登り窯を導入して、燃料効率をあげ、大量生産に対処しました。
また、登り窯導入時期は、形象埴輪にも大きな変化がみられます。
それは、人物形埴輪や動物形埴輪が新しい種類として加わることです。
墳頂や造出しに作られた形象埴輪群像は役者が増えて、より物語性が豊かなものになりました。
ことによると、野見宿禰の埴輪創作説話は、この時点の変化を指しているのかもしれません。
」
名前 |
埴輪窯跡復元 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
道明寺天満宮下にある、埴輪登窯のレプリカ。
土師氏一族の手に依って、色々な土器や埴輪が造られた。