■多度津藩は丸亀藩の支藩として元禄7年(1694)...
■多度津藩は丸亀藩の支藩として元禄7年(1694)に発足した。
初代多度津藩主は京極高通(きょうごくたかみち・丸亀藩第2代高豊の子)である。
しかし、高通ら歴代の藩主は丸亀城内に住みつづけ、多度津に陣屋を築いて移ったのは第4代の高賢(たかかた)の代で、約130年後の文政7年(1827)のことであった。
🌟🌟5代藩主高琢(たかてる)は、天保9年(1838)多度津湛甫(たんぽと読み、港のこと)の大工事によって多度津港の基盤を築き、以来、幕末から金毘羅参りの船着場として、北前船の寄港地として繁栄した。
🌟🌟現在も家中と呼ばれている地域は、陣屋を中心として構成された士族町で、城下町の一端を形成している。
東門より大手門に通ずる四間半道路の大手筋、これを中心にカギの手型の袋小路、いかめしい土塀と門構えなど、また陣屋要所の門に番所があって、庶民にとって威圧を感じる屋敷町であった。
「西讃府志」に当時のもようを次のように記している。
北方海をうけて御陣屋の廓外西南に回りて入江あり、海水往来して舟泊り(古湛甫)あり。
この内諸士の宅者軒を並べ、甍を連ねて繁りあえり。
さてこの海浜、むかしより舟泊りの津(津は、港の事)にて、いまも東町、洲家町、中之町、堀之町、角屋町、門前町、田町、浜町、新町などすべて九町、農商相まじり此屋いらかを連ねて一都会たり。
🌟🌟現在、付近には、武家屋敷(大手東門の近く)、堀跡(剣術道場の前)などが残るが、遺構は殆んど無くなっている。
🌟🌟旧多度津藩士・浅見邸跡には、多度津町立資料館が建っており、多度津陣屋を理解するためには資料館訪問は欠かせない。
名前 |
旧多度津陣屋蓮堀趾 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
2.8 |
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発掘調査で石垣などが見つかったようだが、顕在遺構はない。