おそらくは石垣だったと思われる楔形の石が残されてい...
きっちり土塁が残されているのと、おそらくは石垣だったと思われる楔形の石が残されている。
昔近所でした。
今日見に行ったらますます渋さがありました。
でもやっぱり桜の時期のが僕は好きかな、夜も下からライトアップがあり綺麗ですよ。
昔この場所に館林城があったそうです。
お城が廃城となりその本丸跡だけが残っている。
土橋門や城を囲む塀、井戸も保存されている。
城址のため、天守閣や本丸は跡のみで現存していません。
土橋門は再建されています。
城跡としては、わずかに土塁跡、堀、虎口などが残るのみだが、公園や、その周辺には広い惣構があるのだと想像すると面白い。
復元した門と塀ですが、趣きがあっていい感じです。
(場所は分かりづらいです)
桜の季節は毎年訪れます。
鶴生田川沿いの桜も綺麗なのですが、復元された土橋門と相まって趣ある風情です。
城門と井戸、一部城壁があり、中には広場になっています。
今は文化会館等が立っており、お城の形跡はこの門跡くらいかな。
ただこの周りは清々しかった。
徳川綱吉が藩主を務めたお城。
今は門がその名残を残すだけ。
赤井照康が最初の城主で長尾氏北条氏榊原氏そして松平氏を経て徳川綱吉にその後井上氏最後に秋元氏現在三の丸の門が残り土塁も少し有ります❗️25万石の時代には、天守閣もあったということです。
徳川四天王の一人、榊原康政が近世城郭に改修。
遺構は僅かしか残っていない。
館林市指定史跡館林城跡一、指定 昭和四十八年四月一日 館林市指定史跡一、所在 館林市城町甲二三ー一 他一、時代 戦国時代~江戸時代館林城は、「城沼(じょうぬま)」を自然の要害(ようがい)とした平城で、別名を「尾曳城(おびきじょう)」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭(はちまんぐるわ)、南郭(みなみぐるわ)を置き、これを取り囲むように、稲荷郭(いなりぐるわ)、外郭(そとぐるわ)、惣曲輪(そうぐるわ)を構え、更にその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当寺の記録は、現在まで発見されていない。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明三年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の攻防の中で「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
天正十八年(1590)の徳川家康感等入封に伴って、徳川四天王の一人、榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで、江戸幕府の重鎮(じゅうちん)を務めた七家の居城として栄えた。
城の建物の大半は明治七年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入り口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
この土橋門は、昭和五十七年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。
また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことが出来ないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。
復元された城門で、特段特徴はありません。
こちらには、館林藩の国家老であった岡谷瑳磨介の労苦を記した碑が立っています。
嘉永元年(1848年)岡谷が国家老に登用されたとき、館林藩の財政は危機に瀕していました。
館林藩には江戸定府の藩士が多く、その諸経費は藩財政を圧迫していました。
さらに出羽山形から館林への移封には巨額の費用を要し、そこへ折からの水害によって領地が壊滅的な被害を受けた為、年収は五万両の不足となりました。
これに対して借財は膨張の一途を辿り、その額は二十万両に達していました。
岡谷は抜本的な財政再建が急務と考え、藩候に改革案を提出しようとしましたが、これは江戸家老によって阻止されました。
意を決した彼は許可なく出府を強行。
藩候に直接会って建言。
彼の熱意に動かされた藩候は許しを与え、ようやく改革は着手に至りました。
岡谷は藩士の俸禄を減らすなど、徹底的な倹約を実行するとともに、桑、茶、漆、桐などを栽培させ、機織、牧畜も奨励しました。
これらの政策によって、館林藩は危機を脱しましたが、藩士らの反発も強く、ついには誹謗中傷によって職を退き、晩年は不遇であったといいます。
時を経て、この岡谷の業績に着目したのが、館林藩士の子孫である田山実弥登でした。
自然主義文学の旗手として知られる田山花袋の実兄に当たる彼は、まさに歴史のなかに埋もれた岡谷の業績を「埋れ木」という著作で世に訴えました。
この書の出版と時を同じくして、土橋門内に立派な石碑が建てられました。
この碑の前に立つと、人の世の毀誉褒貶の空しさを、しみじみと感じます(;_;)/~~~
このためだけに行く場所ではないが、桜の時期はきれいです!
何の変哲もない住宅地を抜けると黒門が。
榊原宗家1600-1625年 10万石1625-1643年 11万石大給松平宗家1644-1654年 6万石1654-1661年 5.5万石館林徳川1661-1683年 25万石越智松平1707-1709年 2.4万石1709-1712年 3.4万石1712-1728年 5.4万石太田宗家1728-1735年 5万石太田宗家1740-1746年 5万石越智松平1746-1769年 5.4万石1769-1836年 6.1万石井上宗家1836-1845年 6万石秋元宗家1845-1869年 6万石1869-1871年 7万石。
館林城跡です。
名前 |
館林城 土橋門跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0276-74-4111 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.3 |
カルピスホールのすぐ近くに土橋門跡がある門は復元だが、土塁はなかなか見ごたえあるのでじっくり見た方が良い。