81年間京都に住み慣れて七月から館林市に浄土しんし...
こちらには館林藩士であった大久保鼎(かなえ)の墓があります。
十代秋元志朝(ゆきとも)に仕えた鼎は、江戸に出て昌平黌に学び、水戸の藤田東湖や勝海舟などと交わり、過激な勤王思想を抱くようになりました。
嘉永6年(1853年)ペリーが黒船を率いて浦賀に来航すると、攘夷の決行を決意して同志とともに、密かに浦賀に潜行。
外国人を襲撃しようとしましたが果たせませんでした。
のちに長州藩が下関で外国船を砲撃すると聞くや、居ても立ってもおれず、藩の制止を振り切って京に向かいました。
このとき、出発に先だって石工を呼び、自分の墓石に「大久保鼎死処也」と刻ませたといいます。
しかし、わずか五日後には箱根山中で捕らえられ、江戸の館林藩下屋敷で、従容として割腹して果てました。
豪気というか、トンデモナイ人物というか…(^_^;)お墓も実に立派な堂々とした物で、刻まれた自筆の字は豪胆そのもの!いかにも…という感じです(^_^ゞ
仏光山 覚応寺は、浄土真宗大谷派の寺院です。
境内には太子堂があります。
その後ろには浮世絵師・北尾重光の墓があります。
北尾重光は江戸生まれの人物で、江戸時代末期に館林界隈で活動し、幟や絵馬を描いていたそうです。
重光の手による絵馬が、館林市近郊の多くの社寺に奉納されているそうです。
名前 |
覚応寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0276-72-1777 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
81年間京都に住み慣れて七月から館林市に浄土しんしゆうなので是非とも拝見。