北条五代祭りの今日、お参りしてきました。
北条氏政・氏照の墓所 / / .
北条氏政、氏照の墓です。
あまり、行く人いないかもしれませんが、歴史上の人物なので今回訪問花が生けてあり、どなたかが、墓守りしている様子駅から近く、おしゃれ横丁の中なのですぐわかります。
通り過ぎそうな場所にありますが、ちょっとした願掛けのスポットでもあります。
以下、小田原市HPより墓所の概説北条氏政は、北条氏第4代の領主。
氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主でした。
天正18年(1590)に豊臣秀吉が、北条氏を攻略した際に、時の城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃しました。
自刃の場所は、城下の田村阿安斎邸(南町)で、遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されました。
北条氏滅亡後、大久保氏の時代になって伝心庵は寺町(中町)に移され、その跡に永久寺を建立したので、この墓所は永久寺の所有となりました。
なお、この墓所は永く放置されてあったものを、稲葉氏が小田原在城の頃、北条氏追福のため、作り直したものです。
それも関東大震災で埋没し、行方不明となりましたが、翌年、地元の有志によって復興されました。
大きい方の五輪塔は、北条氏政夫人の墓と伝えられていますが、確証はありません。
稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には、氏政・氏照の法号(戒名)が次のとおり刻まれています。
「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」「青□院殿透岳關公大居士 北條陸奥守氏照 天正十八庚寅年七月十一日」
氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。
北条四代領主の氏政とその弟氏輝は、1590年 豊臣秀吉の小田原攻めにより周囲の支城がことごとく落とされた後、天下の堅城 小田原城に籠城、抗戦するも、3か月後に落城すると自刃して果てた。
傍らに設置されている小田原市教育委員会の説明板によると、両人の亡骸は当時この地にあった北条氏の氏寺である伝心庵に埋葬されたと伝わる。
関東の覇者 後北条氏の領主の墓所にしては何とも侘しく、敗者の悲哀がしみじみと感じられる場所である。
小田原駅から歩いて数分の地にある。
北条氏政とその弟氏照の墓。
1590年に小田原城が小田原攻めにより落城し、五代領主氏直は高野山に追放。
その父氏政と氏輝は、城下で自刃しました。
墓所は、しばらく放置されいたが、稲葉氏が城主(1633-1685)とのときに整備された。
さくっと見られるので、小田原城観光の前後にオススメ。
駅から5分ほどのところにぽつんとあります。
お墓のそばに説明板があり、下のように書かれてました。
北条氏政は、北条氏四代の領主、氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。
両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。
(現在、永久寺所有) その後設置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633~1685)北条氏追福のため整備されました。
大正十二年(1923)の関東大震災で墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。
北条五代祭りの今日、お参りしてきました。
小田原駅のすぐ近くにありますが、そこだけ落ち着いた佇まいを見せています。
駅東口から徒歩3分くらいなので時間があれば是非。
北条五代祭りの今日、お参りしてきました。
小田原駅のすぐ近くにありますが、そこだけ落ち着いた佇まいを見せています。
駅東口から徒歩3分くらいなので時間があれば是非。
名前 |
北条氏政・氏照の墓所 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0465-33-1521 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/corridor/castle/p10000.html |
評価 |
3.8 |
此方に結ばれている鈴に関して、設置してあるお渡し用の箱から受領した直後から良いことばかり起こっています。
次にお参りする際はお返ししに行きます。